Summary
- 「我思う、故に我あり」は、すべての意識内容は疑うことができても、意識する自分の存在は疑うことができないということ。
- 「我思う、故に我あり」は、自己肯定を促すメッセージではない。
- デカルトは、「近代哲学の父」と呼ばれている。
「我思う、故に我あり」という言葉は、哲学者デカルトの名言として知られていますが、意味を問われると説明が難しいものです。実はこの言葉の背景には、深い思索が込められています。
この記事では、「我思う、故に我あり」について、理解を深めていきましょう。
「我思う、故に我あり」の意味と背景
まずは、「我思う、故に我あり」が示す意味と、その背景にあるデカルトの考え方を整理していきましょう。
デカルトが「我思う故に我あり」に込めた思想
“Cogito, ergo sum” (コギト-エルゴ-スム、ラテン語)は、フランスの哲学者・デカルトが『方法序説』で提示した言葉で、「私は考える、ゆえに私は存在する」と訳されます。
あらゆる事柄を徹底して疑う「方法的懐疑」を進めるなかで、デカルトは「疑っているという意識だけは否定できない」という一点に到達しました。
つまり、見えるもの・感じるものはすべて誤っている可能性があっても、「疑い、考えている自分」だけは確かに存在している。この気づきこそが、近代哲学の出発点となったのです。
辞書では、次のように説明されています。
我(われ)思(おも)う故(ゆえ)に我(われ)在(あ)り
《ラテン Cogito, ergo sum》フランスの哲学者デカルトの言葉。すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない。コギト‐エルゴ‐スム。
引用:『デジタル大辞泉』(小学館)

勘違いに注意!「我あり」は「自信」ではなく「存在」の証
「我思う、故に我あり」は、自己肯定を促すメッセージではありません。ここでの「我あり」は、「自分らしさ」や「意志の強さ」ではなく、思考している主体としての「存在」そのものを指します。
「自信が湧く言葉」のように受け取られがちですが、本来は「意識する自分の存在は疑うことができない」という哲学的命題であることを押さえておきましょう。
考えることが存在の証!
デカルトはどんな人物だった?
デカルト(1596–1650)は、「我思う、故に我あり」で知られるフランスの哲学者。近代哲学の出発点をつくり、数学・自然科学にも大きな影響を残した人物です。
幼少期と学びの時代
フランス中部のトゥーレーヌ州に生まれ、10歳で名門ラ・フレーシュ学院へ。スコラ哲学など幅広い学問を学びましたが、既存の学問だけでは満足できず、卒業後は「世界を見て考えたい」と自ら旅へ出ます。
その後、志願兵としてオランダ軍に入り、医師イサーク・ベークマンとの出会いを通して、数学を使って自然を理解するという新しい発想を得ました。
「炉部屋」での体験|方法的思索のはじまり
1619年、ドイツ駐屯中に「炉部屋」と呼ばれる場所で一人思索にふけり、すべての学問を貫く「確かな方法」を見いだしたと振り返っています。後の哲学につながる重要な体験でした。
20年間のオランダ時代|代表作が次々と誕生
1620年代後半には、長く温めてきた学問改革の構想を実行するためオランダへ移住。およそ20年間、各地を移り住みながら研究に集中します。この時期に『方法序説』『幾何学』『省察』などの代表的著作が生まれ、数学では解析幾何学の基礎を築きました。
しかし、ガリレオ裁判で地動説が禁じられたことを知り、大著『宇宙論』の出版を断念するなど、当時の宗教状況とは常に慎重な距離感を保ちながら活動した人物でもあります。
晩年と最期
晩年、スウェーデン女王クリスティーナからの招きを受け、ストックホルムへ。厳しい寒さのもとでの執務が続き、ほどなく肺炎を患い、1650年に54歳で亡くなりました。
デカルトは、理性によって世界を理解しようとする姿勢を貫き、「精神と物質の二元論」や「思考する自我」を中心に据えた哲学を築きました。その影響は、哲学だけでなく科学・数学にまで及び、今も「近代哲学の父」と呼ばれています。
参考:『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)

デカルトの人間観と道徳の考え方
デカルトは、人間を「身体」と「精神」から成る特別な存在として捉えました。両者がどのように結びつき、どのように道徳へとつながるのかを、わかりやすく整理します。
身体は精巧な「機械」、しかし人間には精神がある
デカルトによれば、人間の身体は心臓を中心とした「精巧な自動機械」のように働きます。しかし、動物と決定的に異なるのは、人間には精神(心)が備わっている点です。
本来、精神と物質はまったく別の存在ですが、人間の中では固く結びつき、ひとつの全体を形づくっています。ここに、人間という存在の独自性があります。
身体が精神に働きかける「情念」とは?
身体の働きが精神に影響を及ぼすとき、それは「情念(passion)」と呼ばれました。
デカルトは、体内を流れる「動物精気(現在の神経信号に近い概念)」の動きによって、喜び・怒り・悲しみなどの情念が生まれると説明します。
情念は「受け身の心の動き」であり、外からもたらされる精神の反応でもあります。
精神の能動=「意志」が人を導く
これに対し、精神が自ら働きかける力が「意志」です。意志は主体的であり、判断し、選び、行動へとつなげる力を持っています。
デカルトにとって、人間の精神は単なる受け身ではなく、情念を理解し、導く力を持つ存在でした。

情念を統御する「高邁」こそ、徳の核心
すべてが機械的な因果法則に従う世界の中で、人間には自由な意志があります。この自由な意志を使って情念や欲望を適切に統御する姿勢、それが「高邁(こうまい)」と呼ばれる心の在り方です。
高邁とは自分の内面を尊重し、外的な状況に左右されすぎずに行動する姿勢のこと。デカルトはこれを「すべての徳の鍵」と位置づけました。
知ることと生き方を結びつけたデカルト
デカルトの道徳は、ストア哲学のように「心の自由」を大切にしつつ、情念をただ抑え込むのではなく、理解し、見極め、意志によって適切に導くという点に特徴があります。
ここには、生涯を通して「学問(知)」と「賢く生きること(道徳)」を一致させようとした、デカルトの一貫した姿勢が表れています。
参考:『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)
最後に
POINT
- 「我思う、故に我あり」は、考える行為そのものが存在の証明であるという哲学的命題。
- デカルトは、すべてを疑う中で「疑う自分」だけは確かだと気づき、そこから真理を導いた。
- フランスの哲学者デカルトは、近代哲学の出発点をつくり、数学・自然科学にも大きな影響を残した人物。
デカルトの言葉「我思う、故に我あり」は、400年近く前に生まれた哲学的命題でありながら、いまを生きる私たちにも静かに寄り添う力を持っています。
不確かなことが多い時代でも、「考え続ける自分」という確かな手がかりを見失わないための言葉です。
デカルトが生涯をかけて探したのは、世界を理解するための確かな方法だけでなく、迷いの中でも自由に主体的に生きるための姿勢でした。
その姿勢は、仕事でも人間関係でも、日々の選択に迷う私たちにヒントを与えてくれるかのようです。
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Domani編集部
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