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LIFESTYLE インタビュー

2022.10.20

「逃げてもいいから挑戦しなさい」母の言葉で強くなれた。車いすバスケ銀メダリスト・古澤拓也

 

著書『車いすでも、車いすじゃなくても、僕は最高にかっこいい。』で、これまでの半生をありのままに語り、多くの人に勇気を与えてくれた車いすバスケットボール日本代表の1人・古澤拓也(26)さんにDomaniがインタビュー。

東京パラリンピック車いすバスケ銀メダリスト古澤拓也が語る “母への想い”

東京2020パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール日本代表の1人・古澤拓也(26)さん。著書『車いすでも、車いすじゃなくても、僕は最高にかっこいい。』が大きな反響を呼んでいます。

高校2年生でU23日本代表入りを果たし、日本代表の若手を牽引してきた古澤さんは、世界トップクラスのボールハンドリングとディフェンスを武器として活躍しており、ファンも多数。「二分脊椎」で生まれ、将来的に歩けなくなることがわかっていたという古澤さんに、何にでも挑戦させてくれたのがお母様だったそう。銀メダリストになった古澤さんが自身の障害とどう向き合ってきたのか。車いすスポーツとの出会いや、サポートをしてくれたお母様への想いについて伺いました。

「二分脊椎」で生まれる

––––「二分脊椎」とはどのような疾患でしょうか?

僕は「二分脊椎」の中でも「脊髄髄膜瘤」といって、背中の皮膚が薄く、脊髄組織が露出している状態で生まれました。かなり危ない状態だったのですが、なんとか皮膚が持ちこたえているような状態で。集中治療室に入れられて、医師からは「もしかしたら助からないかも」とも言われていたそうです。

––––かなり大変な状況だったのですね。

そうなんです。その後、神奈川県立こども医療センターに転院をして、手術を受けました。この手術を受ければ普通に生活できるようになると思っていたのですが、実際にやってみると「脂肪腫」が神経に複雑に絡み合っている状態で、取り除くことができなくて・・・背中にプレートが入れられて、下肢に障害が残ったままになりました。

––––他の子と違うことで悩んだことはありますか?

幼い頃から「自分には障害がある」ということは知っていましたが、だからといって障害を受け入れられていたわけではなかったと思います。幼稚園の時、足に装具がついていたのですが、友達に「ロボットみたいだね」と言われたこともあります。でも、僕は周りの人に恵まれていましたね。下肢に障害はあったけれど、小学校へは自分の足で歩いて行っていたのですが、障害のせいでどうしても疲れちゃうんですね。一緒に行っていた姉も朝遅刻してしまったこともあるのですが、絶対に文句は言わずで、いつも待っていてくれたり。

古澤さんの姉(左)・古澤さん(右)

––––親御さんの送迎ではなくて、自分で歩いていたんですね。

そうなんです。小6で車いすユーザーになるまでは歩いて通っていました。1.2kmくらい距離があって、普通なら15分くらいの道を30分くらいかけて。

––––親御さんはなんでも自分でやらせようという方針だったのでしょうか。

そうですね。定期検診で病院に通っていたのですが、先生の話を聞くときも、母は必ず僕を横に座らせていたんですよ。「自分のことだから、自分で話を聞いて、自分で決めなさい」という感じです。なので、小学6年生で受けた2度目の手術も僕が受けると決めて。

––––自分で決めたんですか!

その手術を受けたら完全に歩けなくなるというのは分かっていたので、決断にはかなり時間がかかりました。でも、受けないと手さえも動かせなくなる可能性もあって、早めにやらなきゃいけない手術だったと思うのですが、母は僕の気持ちが固まるのを待っていてくれました。

––––その後、車いすユーザーに?

そうです。初めて車いすで学校に行く日には、「友達にはなんて思われるんだろう」とか「みんな、車いすでも遊んでくれるのかな」とか本当に不安でしたが、そんな時も母が「今日だけにしよう」「校門の前までだったらどう?」「嫌だったら、その場で帰ってきていいよ」って声をかけてくれて、徐々に前向きな気持ちにさせてくれましたね。

車いすはかっこいい!

––––車いすバスケをはじめたきっかけを教えてください。

テレビで車いすテニスの国枝(慎吾)選手のプレーを見たことがきっかけです。「車いすでもこんなに激しく動けるんだ、かっこいい!」と衝撃を受けました。一緒に見ていた母も目を輝かせていたのを覚えています。その頃はまだ歩けたのですが、僕が目を輝かせているのを見て、母が車いすテニスや車いすバスケの体験会に連れていってくれたんです。それまでは車いすスポーツの存在も知らなかったです。ただ、その時はまだ車いすユーザーになる前だったので、「僕は立って(スポーツを)やる」と言って聞かなくて(笑)

––––参加しなかったんですか?

そうなんです。

––––体験に連れていってもらったけどやらなかったんですね(笑)

今思えば当たり前なのですが、体験会は車いす操作が初めての初心者が参加していたんですよね。僕がテレビで観た国枝選手とはかなりギャップがあって、面白そうと思えなかったんです。でも、その体験会の後に、プロの選手がプレーしているのを見て、「やりたい!」と言って混ぜてもらいました。

それから、車いすテニスのレッスンを受けられるスクールを両親が一生懸命探してくれたのですが、なかなか見つからず…。千葉に1軒あった唯一のスクールは(住んでいる横浜から)、両親の送り迎えで通うには遠すぎたので、自宅の近くから通える体験会に参加しては、情報収集をするという日々が続きました。両親がかなり探してくれましたね。

––––なかなか見つからないものなのですね。

当時は、本当に少なかったんですよね。

––––本格的に車いすバスケを始めたのはいつからでしょうか?

小学校6年生の時に手術を受けて、車いすユーザーになった後ですね。術後の運動禁止の1年間を経て、中学1年生の時に本格的に始めました。最初は、シュートも届かなくて…ものにするのに1年以上はかかりました。でも、「できないこと」が楽しかったです。10も20も、年齢が上の大人たちが手加減なしで教えてくれるんですよ。対等にスポーツができるのが楽しかったです。今思えば、進行性の障害だったので、将来(歩けなくなること)を見越して母は体験会に連れていってくれたんだと思います。

––––他にはどんなサポートがありましたか?

今は免許もとれて、車も運転できるので、好きなところに自分で行けますが、子どもの頃は母のサポートが必須でした。小学校の頃はまだ歩けていたので、歩いて学校に通っていたけど、12歳で車いすユーザーとなってからは、毎朝母に車で送ってもらい、学校に行っていたし、中学1年生からは車いすバスケの練習にも行くようになったので、その練習も毎回母が送ってくれて迎えにきてくれて… という感じで、かなり助けてもらっています。

––––東京パラリンピックで銀メダルを獲得したときは?

本当に嬉しかったです。実は、小学校の卒業文集に「パラリンピックで金メダル」と書いていて。その頃はまだ車いすバスケを始めたばかりで本格的にはやっていなかったし、手術直後だったので、完全に気持ちが切り替えられていたわけではないのですが、それを目標にやってきて、本当にパラリンピックに出場して、メダリストになれたことは誇りたいと思いました。12歳の当時の僕は「車いすになったら、かっこ悪い」としか思っていなかったし、障害があってできなくなったことはたくさんあったので、大変なこともありましたが、東京パラリンピックは、障害があったからこそ経験できたことでした。

––––ご家族にはどのように報告しましたか?

家に帰って、母に会った際、銀メダルを見せて、メダリストだけがもらえるビクトリーブーケをプレゼントしました。そのあとビクトリーブーケは押し花アートにしてもらったんです。

––––お母様の反応はどんな感じでしたか?

シンプルに「お疲れ様!よかったね」と喜んでくれました。

今後は自分がロールモデルに

古澤さんの自伝『車いすでも、車いすじゃなくても、僕は最高にかっこいい。』

––––著書を発売したきっかけは何だったのでしょうか?

僕はテレビで活躍する車いすテニスの国枝慎吾選手のプレーを見たことがきっかけで、車いすスポーツを始めたんですね。それまでは「車いすはかっこ悪い」と思っていて、車いすユーザーの自分を受け入れられていなかった頃だったのですが、車いすバスケを始めて、「パラリンピックに出場する」と決めて練習し始めてからは、自分らしさを取り戻せた感覚でした。次は、僕が憧れた国枝選手のように子供たちの希望になれるようなロールモデル的存在になれたらと思っていて、これまでの人生を本に綴ることにしたんです。

––––本にはどのようなことが綴られているのでしょうか?

僕の場合は、東京パラで銀メダルを獲得したことで、少しだけ自分を認められるようになったのですが、それまでは完全に自分を受け入れられたわけではなくて、「足が動けば運動会で活躍できたのに」と思うこともありました。僕と同じように悩んだりしている人の参考になればと思い、幼少期から東京パラでメダルを獲得するまでの僕の人生ありのままを綴っています。

––––「逃げてもいいから挑戦しなさい」というお母様の言葉が印象的でした。

車いすバスケで日本代表になるための練習だったり、競技と両立して大学を卒業することを諦めなかったのは、母の言葉があったからです。僕はアスリートの中でもネガティブな方で、目の前のことから逃げたいと思うこともたくさんあったので、もし「どんな時も逃げるな」と言われていたら、耐えきれず挑戦すらしなかったんじゃないかと思います。

でも、「嫌になったら、いつでもやめていい。いつでも逃げていいから挑戦しなさい」と物心ついた時から言われていたおかげで、どんなことにも思い切って挑戦することができました。将来的に歩けなくなることが分かっていたからだと思うのですが、母も僕に何にでもやらせてくれたので、今があると思います。

––––お母様へメッセージをお願いします。

これからも迷惑をかけたりすると思いますが、思いっきり自分らしく人生を楽しみたいと思います!

––––子どもたちに伝えたいことはありますか?

悩んでいることがあったり壁にぶつかっている人もいるかもしれませんが、夢を見つけて頑張ってほしいなと思っています。僕の場合はパラリンピックでしたが、パラリンピックじゃなくてもいいんです。自分で目標を決めて、夢を持って、それに取り組むことが大事だと思います。

––––今後どのような人生を歩みたいですか?

僕が車いすスポーツを始めたきっかけとなった国枝選手のように、今度は僕が、障害を持つ子どもや、その親御さんなどに元気を与える存在になりたいと思っています。東京パラリンピックで銀メダルをとったことで遠い存在のように思われているかもしれませんが、僕の人生の前半は、他の障害がある子どもと変わらないんです。

本の中では、障害をどう乗り越えてきたか、どうかわしてきたかを綴っているので、少しでもヒントになれば嬉しいです。同じく障害を持つ子どもやその親御さんが「車いすでもかっこよくなれる」と前向きになってもらえるように、僕も競技活動を頑張りたいと思っています。

写真/五十嵐美弥

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インタビュー

古澤拓也(ふるさわ・たくや)

1996年5月8日生まれ、神奈川県横浜市出身。車いすバスケットボール選手。WOWOW所属。先天性疾患(二分脊椎症)とその合併症の影響で、小学6年から車いすでの生活となる。13歳の時に車いすバスケットボールを始め、高校2年でU23日本代表デビュー。2017年のU23世界選手権では、キャプテンとして日本のベスト4進出に貢献、自身もオールスター5に選出される。日本代表として出場した東京2020パラリンピックで銀メダル獲得。近著に『車いすでも、車いすじゃなくても、僕は最高にかっこいい。』がある。選手としての活動のかたわら、講演会や競技の普及活動にも努め、日本各地を回り、メディア取材を積極的に受けている。好きなものは抹茶、コーヒー。
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