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福沢諭吉ってどんな人?
1万円札の肖像画の人物として知られている福沢諭吉。しかし福沢諭吉とは、一体どんな人なのか、その生涯や功績を詳しく知らないという人も多いのではないでしょうか。まずは、福沢諭吉とはどんな人で、何をした人なのか、一緒にチェックしていきましょう。
福沢諭吉とはどんな人?
福沢諭吉は江戸末期から明治初期にかけて活躍した啓蒙思想家、教育家です。
福沢諭吉は大ベストセラー作家?
『西洋事情』を出版
1866~70年にかけて出版された3編10冊からなる『西洋事情』は、諭吉がアメリカやヨーロッパを訪問した経験から書かれたもの。西洋の進んだ科学技術や政治、学校教育の制度や施設などを紹介している本です。当時、偽物が出回るくらいのベストセラーになり、日本人が西洋の文化を知るきっかけとなりました。
代表作『学問のすゝめ』は大ベストセラーに
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」の書き出しで知られている『学問のすゝめ』。学問の必要性や自由独立の精神などを説いた本です。1872年に初編を出版。それが評判となり、4年にわたって17編まで発刊されました。17編のシリーズ合わせて300万部も読まれたそうです。
当時の日本の人口が約3,500万人だといわれているので、10人に1人が読んだことになります。大ベストセラーになった『学問のすゝめ』は、現在でも読まれる福沢諭吉の代表作です。
慶應義塾大学の創設
諭吉はこれまでの家塾を改革し、慶應義塾と称して、商工農士の身分の差別がない、洋学を志す人のための学習の場を作りました。上野戦争の最中でも、経済学の講義を続けていたというのは有名な話です。これがのちの慶應義塾大学の前身となります。
1万円札の肖像になったのはいつから?
福沢諭吉が1万円札の肖像になったのは、1984年に発行されたものからです。それ以前は聖徳太子が1万円札の肖像でした。また、2004年には1,000円札が野口英世、5,000円札は樋口一葉に肖像が変わる中、1万円札は福沢諭吉が続けて採用されています。
そして2024年から発行される1万円札の肖像は、渋沢栄一に変わる予定です。
福沢諭吉の生涯とは?
福沢諭吉の生い立ちから、その生涯についてチェックしていきましょう。
幼少期から学問に目覚める
1834年12月12日に、中津藩の下級武士の子として、大阪の中津藩屋敷で誕生。「諭吉」という名前は、父である百助が諭吉の生まれた日に手に入れた『上諭条例』という本に由来するといわれています。諭吉は子どもの頃から学問が好きで、家の仕事を手伝う傍ら、塾にも通い漢文を習っていたそう。
語学の習得に意欲を燃やす
諭吉が19歳の時、蘭学を学ぶために長崎に出向きます。日本に黒船が来航して以来、幕府はオランダ語のできる人材を育てることに力を入れていました。そこで諭吉も蘭方医などから、オランダ語を学びます。
しかし、あまりにも成績が良かった諭吉は、他の弟子から妬まれることに。その結果、長崎を去り、大阪に渡ります。そこで兄のすすめもあって、緒方洪庵の塾に入門するのです。
日本が欧米と貿易を始めていた1858年、諭吉は江戸に私塾を創設。ある日、諭吉は外国人が多くいた横浜を訪れます。そこで話されている言葉は、ほとんどが英語。全くオランダ語が通じないことを知ります。諭吉は、そのことに大変ショックを受けますが、次は英語の習得へとシフトチェンジしていくのです。
西洋文化を学ぶ
1860年、諭吉は熱意を買われ、日本からアメリカに送られる使節団の1人として選ばれます。アメリカのサンフランシスコへ渡った諭吉は、西洋の科学技術の豊さを目の当たりにすることに。さらにアメリカの自由と平等さに感銘を受けます。
帰国後は幕府に雇われ、翻訳家として活躍しました。そして1861年に諭吉は、再び使節団の1人としてヨーロッパの国々を訪問し、西洋の政治などを学ぶのです。
教育活動に専念
江戸幕府が廃止され、1868年、時代は明治へと変わります。諭吉は新政府から要職に就くことを求められますが、それを断って教育活動に専念。そして諭吉は江戸に開設していた私塾を、年号にちなんで「慶應義塾」に改名します。これが「慶應義塾大学」の前身です。