上杉謙信の生い立ち
上杉謙信は1530年(享禄3年)越後の守護代長尾為景(ながおためかげ)の四男として生まれました。謙信が6才の頃、為景が病気になり、家督を兄の長尾晴景(ながおはるかげ)に譲りました。謙信は林泉寺というお寺に預けられ、ここで天室光育(てんしつこういく)という僧侶から学問や武道を学びます。
父為景亡き後に国主となった兄の晴景は、兄弟で協力して国を治めようと、13歳になった謙信を栃尾城の城主に任命します。若輩者の謙信を甘く見た周辺の豪族たちは度々謀反を起こし、攻め込んできました。
しかし謙信はこれらを次々に撃退し、19歳のときに、病弱だった晴景から家督を譲られ、長尾家の当主となります。その後内乱が長く続いた越後国を平定し、繁栄させるために尽力しました。
名前の変遷
誕生から元服までは「虎千代(とらちよ)」、元服後には「景虎(かげとら)」、その後関東管領(かんとうかんれい)上杉家を継いで「政虎(まさとら)」となります。そして、足利義輝から「輝」の字を与えられ「輝虎(てるとら)」となり、入道して法名「謙信」を名乗っています。元々の苗字は「長尾」ですから、「長尾景虎」「上杉政虎」「上杉輝虎」「上杉謙信」は同一人物です。
上杉謙信の名言
戦国時代屈指の戦上手だった、上杉謙信。「越後の龍」「軍神(いくさがみ)」などと称賛されています。武田信玄や織田信長でさえ、謙信と苦戦を強いられていました。一方で、「義」を重んじ、敵といえども、困っている人には手を差し伸べる性格だったことも伝わっています。そんな謙信の人柄を表す有名なエピソードや、本人の名言を紹介します。
「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり。何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし」
「運」というものは天が決めることであり、自分の力ではどうすることもできない。しかし、鎧を着ることは自分の身を守り、手柄も自分の足で勝ち取ることができるのだ。戦というものは運に任せるものでなく、自分の掌の上で転がすように戦わなければ勝てない。つまり、「自分の道は自分で切り開くのだ」ということです。運や人のせいにするのではなく、自分の準備や努力が大事というのは現代にも通じるものがあります。
「我を毘沙門天(びしゃもんてん)と思え」
仏教で四方を守る四天王のうち、北を守る神が毘沙門天です。謙信は自分のことを毘沙門天の生まれ変わりであると考えていました。戦の前には必ず毘沙門堂に籠り、座禅や瞑想を繰り返し、戦の時には「毘」の旗を掲げていたことは有名です。この言葉は、隣国に一揆が起こった際に、家臣を派遣しようとするものの、毘沙門天の神文(しんもん)を取る時間がなく、家臣に言ったもの。
7歳から寺に預けられていた経験から、謙信は鳥や魚の肉を断ち、生涯独身で、仏教に帰依する姿勢を崩しませんでした。このような信仰が謙信の、義の道を貫き、戦の目的は他国を侵略することではなく他国の救援である、という思想につながっているのでしょう。