N.Y.で出会った、絵描きの父とダンサーの母、そのふたりの間に生まれた木下ココ。母は帰国するが、N.Y.に残った父とは、年に数回しか会うことができず、母はダンス講師として生計を立て、常に忙しく、その母に甘えることが許されず、孤独な幼少時代を過ごした。子供時代は、母に愛されるために、厳しい言いつけを100%守ってきた彼女だが、自我の芽生えとともに、自分の親子関係に、疑問を抱くようになる。そしてついに…。
木下ココの、雑誌『PINKY』でのモデル時代から、編集者として、苦楽をともにしてきた筆者が、彼女と知り合って13年目。初めて彼女は、今まで誰にも明かすことがなかった、その人生と本心に触れる———。
初めての母への反抗と、大切な人の突然の旅立ち
それまで彼女が、母親の言いつけを100%守ることで成り立っていた親子関係が崩れ始めたのは、高校に入って少し経ったころ。愛する父と、年に数回しか会えない寂しさ、頑張っても母に認めてもらえないもどかしさ、そして、常に母の顔色をうかがい、ビクビクしながら生活している自分…。友達の家族とは明らかに違うその状況に、疑問を感じるようになったことがきっかけだった。
高校一年生の秋、それまでずっと優等生だった彼女が、初めて門限を破った。母親に対しての初めての反抗。「当時、まわりの友達はみんなPHSを持っているのに、母は“うちはうち、人は人”っていう方針だったから、持たせてもらえなくて…。子供って、ひとりだけ持ってない状況に、疎外感を感じたり、仲間はずれにされたりして、結構、死活問題だったりするでしょう(笑)?
そのころ、せっかくできた友達を失うわけにはいかない…、と、ゴネにゴネて、ようやく持たせてもらえたんだけど、初めて門限を破った日は、そのPHSが、母からの電話で、ずっと鳴りっぱなしだった。親からの電話を無視するのももちろん初めての経験で、正直とても怖かった。でも一度無視したら、もう引き返せない。ビクビクしながらも友達と一緒に過ごして、夜の9時頃に帰宅したのを、今でも鮮明に覚えてる。もちろんそのあと、こっぴどく叱られたけど(笑)」。
そんな彼女を、さらにショックな出来事が襲う。大好きな父が他界したのだ。「実は、中学3年のときに、父と母が離婚してたの。離婚したことは、私には知らされていなくて、しばらくして、たまたま母の留守中にかかってきた父からの電話で、事実を伝えられて…。今までみたいに父と会うことはもちろん、話すことすらできなくなってしまったことは、本当に悲しかったし、何も教えてくれない母に対して、不信感をもつようにもなったの」。
当時16歳になったばかりの彼女に、早すぎる父の死を受け入れることなど、そう簡単にできるはずがなかった。「クリスマスイブに生まれた私の、16歳の誕生会兼クリスマスパーティを、友達が開いてくれている最中に、父の死を知らされた。最初は意味がわからなくて…。しだいにどうして私のお父さんが…?っていう気持ちでいっぱいになって、なかなか現実を受け入れることができなかった。
父はお酒が大好きで、家族に会うために、父がたまに帰国したとき、子供のころの私の役目は、トランクを開けて、まず、中に入っているお酒を捨てることだったの。しらふのときは真面目なのに、お酒を飲むと饒舌な三枚目になって、ウイットに富んだ会話で私を楽しませてくれる。私はそんな父が、本当に大好きだった。繊細で小心者の父が、異国の地でひとりで生きていくためには、どうしてもお酒が必要だったのかもしれない。亡くなる前は、故郷が恋しかったのか、美空ひばりが歌う演歌をよく聴いていたのを覚えてる…」。
彼女は目をうるませながら、数少ない父との思い出を語ってくれた。「今となっては、母親としてだけでなく、父親としての役割も果たすために、母が背負っていた責任や気苦労も理解できるんだけど、私にとっては、どちらも大切な親であることには変わりはない。どうしても母に対して、不満を抱かずにはいられなかった。反抗期であったことも重なって、そのころは母と、取っ組み合いの喧嘩をすることもしょっちゅう。母の前では強がって平気なふりをしていたけど、ひとりになると、毎日涙が止まらなくて泣き続けた。あのころの私は完全に情緒不安定だったと思う」。
両親が常にそばにいない環境が影響したのか、幼少期から気持ちが不安定になると、発作が起きて、吐き気をともなう体調不良を起こしていたことを打ち明けた彼女。体の異常を母に訴えても、忙しくて取り合ってもらえなかったことも辛かったという。「中学生のころから、自分の感情を、自分でコントロールすることを覚えて、少しずつ発作は治まったんだけど、そのころから嫌なことや辛いことをもう感じたくなくて、いろんなことを“見ないふり”するようになったの。でも、そうすると、どんどんまわりに対して、自分の本当の感情を出せなくなっていくの」。
“自分のことは人に頼らず、自分でどうにかしないといけない…。”そんな気持ちから彼女は、母に内緒でアルバイトを始めた。「高校は、私立で裕福な家庭の子が多くて、アルバイトする子はほとんどいなかったんだけど、私のお小遣いはそのころ、月にたったの3,000円。もちろん、アルバイト自体も学校で禁止されてたんだけど、また私だけ、何も買えない、どこにも行けない、という状況が苦痛で、その状況を打破するために、自分で稼ごうと思って、こっそりアルバイトを始めたの。
パン屋、スーパー、レストラン、テレオペとかいろいろやったよ。当時の遊び場が下北沢だったから、下北沢で電話回線のデモンストレーションをするアルバイトは、長く続けた。アルバイトが終わったらすぐにみんなと合流できるように。そのころの私にとっては、友達が家族だったから、みんなと交流をもっていたかったの」。
次回、その後も、母親との溝は広がっていく。いっぽう、大学に進学した彼女は、モデル活動をスタートさせる。“元祖かわいい系モデル”として絶大な人気を博した彼女の当時の本心とは…?
撮影:柿沼 琉(TRON)