ソクラテスとは?
ソクラテスは古代ギリシアの哲学者。「正しい行い」や「どう生きるのか」ということを考え、突き止める学問、倫理学を切り拓いた人だといわれています。インドの釈迦、中国の孔子、ユダヤのキリストと並ぶ4聖人の1人です。
また、ソクラテスは自身の著書を残していません。にもかかわらず、世界で最も有名な哲学者の1人として、現在でも多くの人に知られています。それはプラトンをはじめとする弟子などが、ソクラテスについて記した著作物が残っているからです。
ソクラテスの人物像は、その著作から読み解くしか方法がありません。しかし、弟子によってソクラテス像が異なり、その本当の姿を把握するのは難しいといわれています。
ソクラテスの生涯とは?
ソクラテスという名前は知っていても、生い立ちやどんな生涯だったのかを詳しく知らない、という人も多いのではないでしょうか。それでは、ソクラテスの生い立ちや生涯を一緒に辿ってみましょう。
アテネに生まれる
ソクラテスは紀元前469年もしくは470年頃、ギリシアのアテナイ(現アテネ)で彫刻家(石材工という説も)の父、助産師の母の元に誕生。その生涯の大半をアテナイで過ごしたといわれています。
平和に暮らした青年期
ソクラテスの青年期のアテナイは、民主政治が最も栄えた時期です。その時期のソクラテスは自然科学を学んだともいわれています。
戦争に従軍
ソクラテスが40歳頃には、ペロポネソス戦争が起こります。ペロポネソス戦争とは、ギリシアの主導権を争ってアテナイとスパルタとの間で起こった戦いで、ギリシアを2つに分けました。ソクラテスは、その戦いに50歳までに3度にわたって重装歩兵として従軍します。
死刑宣告を受ける
長く続いた戦争に敗れ、疲弊しきっていたアテナイにおいて、ソクラテスは強い影響力を持っていました。ソクラテスが70歳のとき、「国家が信じる神々とは異なる神を信じ、若者を堕落させた」という理由から裁判にかけられ、言い渡された判決は死刑。友人からは逃げることを勧められますが、ソクラテスはそれを拒みます。潔く死刑を受け入れ、自ら毒を飲んでその生涯を閉じたとされています。
『ソクラテスの弁明』とは?
『ソクラテスの弁明』とは、「世界で最も有名な哲学書」といわれているもの。前述した通り、ソクラテスは「国家が信仰する神とは異なる神を崇めたこと」「青年たちを腐敗させ誤った道に導いた」という理由から捕らえられ、裁判にかけられます。
その裁判でソクラテスが行った法廷弁論を、弟子であるプラトンが記した著書があります。それが『ソクラテスの弁明』です。「最初の弁論」「有罪の宣告後の弁論」「死刑の宣告後の弁論」の3つからなり、ソクラテスの哲学の真髄を示したものです。
「無知の知」とは?
「無知の知」とは、「自分には知識がないことを知る」という考えです。知らないことを自覚し、真摯に自分と向き合い、真の知識への探究をすることが大切だという意味があります。
ソクラテスが死刑宣告を受けた背景は?
ソクラテスが国家反逆罪のようなもので捕らえられ、死刑宣告を受けた背景には、このソクラテスの思想があります。その当時、ギリシアには「ポリス」と呼ばれる都市国家があり、アテナイもその1つでした。デルフォイというポリスにあるアポロン神殿は、巫女を介して神のお告げを聞く場所で、人々が政治や外交などについて神託を得に訪れていたとされています。
ある日、ソクラテスの友人はアポロン神殿で「ソクラテス以上の賢者はいるか?」と神に尋ねたところ、「ソクラテス以上の賢者はいない」という答えが。それを聞いたソクラテスはとても驚き、様々な有識者や賢者と呼ばれる人たちとの対話を試み、次々に論破していくのです。
若者たちにとって、その光景は痛快そのもの。真似をする人まで出てきたくらいでした。しかし、ソクラテスに論破された有識者や賢者といわれる人々は、面白くありません。そのことがソクラテスへの反発を生み、裁判にかけられることになるのです。