「小田原評定」の読み方・意味・由来
「小田原評定」とは日本の戦国時代に生まれた言葉で、会議が長引き結論が出ないことを指します。今ではその由来を知る人も少なくなっており、日常生活で実際に使われることもあまりありません。
特に若い世代では「小田原評定」という言葉の存在自体を知らなかった、あるいは初めて聞いた、という人が多いのではないでしょうか。
そこで、この「小田原評定」について、その読み方と意味、そしてこの言葉が誕生した由来についてご紹介しましょう。
「評定」は「ひょうてい」でなく「ひょうじょう」
「小田原評定」は「おだわらひょうじょう」と読みます。「おだわらひょうてい」と読むのは間違いなので注意しましょう。
企業などでは社員の勤務態度などを評価することを「評定」と書いて「ひょうてい」と読むので、混同しやすいようです。「小田原評定」の「評定」は「相談」のことなので「ひょうじょう」と読みます。「評定」は読み方によって意味が変わる漢字の代表例といえます。
ひょう‐じょう〔ヒヤウヂヤウ〕【評定】 [名](スル)皆で相談して決めること。「小田原評定」
ひょう‐てい〔ヒヤウ‐〕【評定】 [名](スル)一定の基準に従って価値・価格・等級などを決めること。「勤務成績を評定する」
「小田原評定」の由来と歴史
天正18年(西暦1590年)、戦国時代の日本では、豊臣秀吉が関東の小田原藩(現在の神奈川県小田原市)に軍勢を送り、北条氏直が城主である小田原城の周囲を包囲し、豊臣側の軍門に下ることを要求します。
北条氏直は和解のため豊臣側と小田原城内で評議を行いますが、お互いが主張を譲らず話し合いは長引くばかりで和解のための結論を出すことができません。結局、評議の結論(評定)が出ないまま、小田原城は豊臣軍に攻め込まれてしまい、北条家は滅ぼされてしまうのです。
ここから「会議が長引き結論が出ないこと」を、北条氏直が小田原城内で評定を出せずに滅ぼされてしまった史実になぞらえて「小田原評定」と呼ばれるようになったのです。
「小田原評定」と清洲会議とウィーン会議
「小田原評定」とは少し異なる比喩的表現で、地名が付いた歴史上の有名な会議に「清洲会議」と「ウィーン会議」があります。
「清洲会議」は、「小田原評定」からさかのぼること8年前の天正10年に、明智光秀に討たれた織田信長の後継者と織田家の領地の配分を決める目的で開かれた戦国武将たちの会議です。尾張国(現在の愛知県)の清洲城で行われたことからこの名が付いています。
現代では、亡くなった資産家の遺産相続の会談を「〇〇家の清洲会議」と呼ぶことがあります。
「ウィーン会議」は、ナポレオン戦争後の戦後処理を決める目的で、欧州の主要国がウィーンに集合し開催された国際会議です。1814年9月にスタートしたウィーン会議は、翌年の1815年6月に終結します。長期間にわたったことから「欧州版の小田原評定」ともいえる歴史的な会議となりました。
途中で舞踏会なども催され「会議は踊る、しかし会議は進まず」という格言ができたほど、各国の思惑と利害関係が絡んでなかなか結論がでないことが風刺対象となった会議でもあります。
ウィーン‐かいぎ〔‐クワイギ〕【ウィーン会議】 1814年から15年にかけてウィーンで開かれた国際会議。フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序の回復を図ったもので、ウィーン議定書が調印され、革命前の状態への復帰をめざす正統主義と、大国の勢力均衡とを二大原則とするウィーン体制が成立した。この会議は諸国の利害が対立して遅滞し、「会議は踊る、されど会議は進まず」と風刺された。
「小田原評定」の用例
企業の重要会議では、なかなか結論が出ずに会議が長引くこともよくあります。まさに戦国時代の「小田原評定」と似た状況が、現在のビジネス社会で毎日のように起きているわけです。
それでは、世の中で「小田原評定」がどのようなシーンで用いられているのか、ビジネスと一般社会における用例として以下にご紹介しましょう。
ビジネス現場での「小田原評定」
ビジネスの現場では、社内で働くそれぞれの立場の社員によって意見が異なり、会議が「小田原評定状態」になることがよくあるようです。それでは、ビジネス現場での「小田原評定」の用例を挙げてみましょう。
・会社の方向性を決める重要な会議だったが、営業部と技術部との対立が埋まらず、小田原評定状態になったらしい
・うちの課のミーティングでは、議論が紛糾して結局何も決まらない。これではまるで小田原評定だね