今回の「女の時間割。」は、元競泳日本代表の寺川綾さんが登場。仕事人生の前半はミズノ(株)で社員として勤務しながら競泳選手として活躍。29歳で“競技からの卒業”を宣言した後はコーチやスポーツキャスターに転身した“寺川さんの現在地”をお聞きしました。
寺川さんの「女の時間割。」
Vol.1「女」時間〜ひとりの女性として仕事に向き合う時間〜←この記事
Vol.2「妻」時間〜妻として夫に向き合う時間〜
Vol.3「母」時間〜母として子どもに向き合う時間〜
スピンオフトーク
寺川綾さん
ミズノ(株) スイムチームコーチ、スポーツキャスター・39歳
元競泳日本代表、女子競泳ロンドン五輪銅メダリスト
寺川さんの「女」時間をClose up 18:00@Studio
スポーツキャスターとして番組出演の準備
「たとえば五輪の代表選考会に取材でうかがうとき。私たちはひとりの選手の人生が左右されるような重要な瞬間に立ち会わせてもらうことになります。試合で思うような結果を出せた選手もいれば、そうではない選手もいます。そんなタイミングに話を聞かせていただくのですから、不用意な問いかけにならないよう言葉選びは慎重にしています。短時間で選手の本音を引き出すことが重要なので、気持ちよく話していただける運び方も心がけます」
「女」時間 寺川さんの仕事のある平日
この連載では“ある日の時間割”についてアンケートに回答してもらい、撮影シーンを構成しています。寺川さんの「女」時間を紹介します。
6:00 起床、朝食準備とお弁当づくり
7:00 子どもたちを起こして朝食、余裕があれば掃除、洗濯、仕事の準備
8:00 子どもたちを送り出す
9:00 家を出発、試合会場へ
14:00 取材を終えて一度帰宅、夕食準備
17:00 シッターさんに子どもを任せてテレビ局へ
22:00 スポーツキャスターとして番組出演
23:00 終了
23:30 帰宅、入浴
25:00 就寝
やりきって満足したからこそ見えた、競技者としての“やめどき”
「それまでは誰に言われるでもなく、先々の目標や計画までぽんぽん立てることができていました。たとえば一年間、何を目標にどのような計画でどんな練習を積んでいくのか。自分がすべきことを決めて着実に前に進むことができたのです。ところが、29歳のあるとき初めて競泳選手としての目標を立てることができなくなってしまいました。個人種目とリレーの2種目で銅メダルを獲得した2012年のロンドン五輪が終わり、翌年の世界水泳選手権や国体に出場したら、目の前にあった目標がサッと消えてしまったのです」と、自身の人生における大きな転機について、ひょうひょうとした表情で振り返る寺川綾さん。
「周囲の方には“まだやれるんだから、次のリオ大会に向けてちょっと休んで”とねぎらわれたのですが、オリンピックに対する目標すら浮かばない状態になってしまって。すると“ああ、こういうときなんじゃないのかな、やめどきって”と、不思議な納得感がわいてきたのです。人生の大半を費やしてきた競技者としての水泳を“卒業”することに迷いはありませんでした。たぶん満足していたのだと思います。悲しいとか、もっとやりたかったという心残りは1ミリもなかったですね。“人の心ってこんなふうに変わってしまうものなんだ”と自分でも驚きました」
寺川さんが水泳を始めたのは3歳、幼少期に小児喘息になり医師から勧められたのがきっかけだった。幼稚園の段階で選手育成クラスから声がかかり、一生懸命プールに通ううちに気づけば選手候補生となり、“本当に記憶にないくらいナチュラルに水泳選手になる道を歩んでいた”と話す。送迎や食事などの両親のサポートが寺川さんを支え、大学時代にはオリンピック選考会で代表を狙うレベルに。“楽しい”水泳に結果が出て順位がつくことで、“勝ちたいし、勝つためにやる”とマインドも変化した。大学卒業後は総合スポーツメーカーのミズノに入社して社員選手で構成する「ミズノスイムチーム」に所属した。
競泳とともにストイックに駆け抜けた20代
社員選手時代の寺川さんのモチベーションの源は“勝つ”こと、そして“結果を出す”こと。
「好きでずっと打ち込んできた水泳を仕事として続けさせてもらえて、結果を出せたら会社の方にも喜んでもらえる。こんなありがたいことはないと思いました。結果を出すためにはどうしなければいけないかを真剣に考えましたし、練習を頑張りすぎて試合後の切り替えがうまくいかなくなった時期もありました。いい結果を出せないときには大きなプレッシャーを感じてしまったり、どうしていいかわからなくなったときには、社員選手の同僚に救われました。仲間が“私たちは仕事として責任をもって泳ぐ”という初心に立ち戻らせてくれたのです。
2008年の北京五輪代表に選ばれなかったときには、会社を辞めなければと思いました。社員にまでしてもらっているのにオリンピックに行けないなんて、自分は終わったと思ったのです。それを乗り越えるきっかけになったのはある方の言葉でした。それまでずっと励ましてくださった方から代表落選直後に“お疲れさまでした”と言われたのです。私はやめるなんてひとことも言っていないのになんで勝手に決めつけるんだろうと、カチンときてしまいました(苦笑)。でも、これで終わったら確かに皆にそう思われてしまう、絶対にこのまま終わらせてはいけないと、奮起する原動力にもなりました」
そのとき寺川さんの頭に浮かんだのは、これまでの練習環境を一新させるという大胆な決断だった。近年でこそ選手の選択肢のひとつになっているものの、当時自分でコーチや練習環境を変えようと考える選手はほとんどいなかった。関係する多くの人に迷惑をかけ、中には口を聞いてくれなくなった人もいたという。それでも寺川さんは自ら決断して強くなれる環境に身を置いた。誰に何を言われようとも試合で勝ちたい。結果はすぐに現れ始めてその後の寺川さんの華々しい活躍に見事につながり、日本代表選手として歓喜と高揚の日々を経験した。
葛藤を乗り越えてセカンドキャリアを切り拓く
1秒を削るためにストイックに研鑽を重ねて、競泳選手として純度の高い日々を過ごしてきた寺川さん。だからこそやりきった充足感とともに競技からの卒業にも踏み切れた。しかし、ひとりの職業人として、ミズノ社員としての人生が終わってしまったわけではない。ほどなく寺川さんのセカンドキャリアの幕が上がった。
「指導者としてスーツケースひとつもって全国をまわり、イベントや水泳教室で一般の方に指導させていただく日々が始まりました。初めて“泳げない人にどうやって水泳を教えるのか”悩みました。人の体は水中で自然と浮くはずなのに、浮くことのできない人が目の前にいる。そして自分には泳げない人がもつ水への恐怖心がわからない。ふだん泳ぐときにしている動作を言葉に落とし込んで、それを相手にわかりやすく伝えることの難しさ。初めて水泳って難しいなと思いました。水を怖がる子どもを水中で抱っこしながらほかの子を指導していたら、1時間後にその子が“楽しかった”と言ってくれて“こういうのがやりがいなのか!”と喜びも感じました」
これまでの経験をふまえた新しいキャリアの道は、スポーツキャスターとしての仕事にも広がった。ところが、キャスターの打診をされた当初は“メディアの仕事は自分は絶対にやらない”と拒絶の感情がわきあがった。
「自分とは最も遠い世界だと思っていたのです。正直にお話しすると選手時代は取材を受けることが好きではなかったですし、カメラで撮られることも苦手でした。聞かれたくないタイミングに聞かれたくない質問にも答えなければなりませんし、自分にとってはいわば敵の陣地に(苦笑)、足を踏み入れるわけがないとかたくなな気持ちでした。ところが“自分でやりたいと手をあげても簡単にできる仕事じゃないんだから”と、さまざまな方がこぞって私を説得にかかってくださって。“イヤとか嫌いではなくやったほうがいい”とみなさん口をそろえるのですが、最初はそれが理解できなくて少し時間が必要でした。
スポーツキャスターをお受けした理由のひとつは、現場に行ってみたら、ひとつのスポーツニュースをつくるのにどれだけ大勢の方が関わり、みなさんがどれだけスポーツが好きで、どれだけの熱量をもって制作にあたっているかをまのあたりにしたからです。自分の敵だと思っていた人たちは実は敵じゃなかったのだと(笑)遅まきながら知れたことは大きな収穫でもありました。
最終的な決め手となったのは、声をかけてくれた方が私を高校時代からずっと取材してくださっていた方だったことでした。どんな現場にも足を運んでくださり、取材許可が出ないときには許してもらえるまで外で立って待っているようなその方が、引退表明後に最初に電話してくださったのです。“ぜひ何か一緒に仕事をやらせてもらいたい”と。即答はできませんでしたが、これまで時間をかけて築いてきた関係性があったからこそ、悩んだ末にこの方となら一緒に頑張れるかもしれないとご依頼を受けることに決めました。
報道の番組出演が決まってからは、自分が呼ばれていない日の収録にもスタジオに足を運んで見学させてもらったりしました。これからも選手時代の経験を活かしながら、現役選手たちの声をみなさんにお届けするお手伝いをしていきたいです」
〈取材現場より〉
自分の人生は自分の思うまま、何にもしばられずに歩いていきたい。表情豊かにときにちゃめっけをまじえながら、骨太な人生のスタンスを語ってくださった寺川さん。次回Vol.2では、寺川さんのユニークな妻時間をお届けします。
Profile
寺川 綾
てらかわ・あや/1984年、大阪府生まれ。ミズノ株式会社所属。3歳から水泳を始め、高校2年生で2001年世界水泳選手権に初出場。翌2002年パンパシフィック水泳選手権女子200m背泳ぎで銀メダルに輝く。アテネオリンピックでは200m背泳ぎ8位、ロンドンオリンピックでは100m背泳ぎと4×100mメドレーリレーの2種目で銅メダルを獲得。50m背泳ぎ、100m背泳ぎの日本記録保持者となる。ロンドン五輪は2大会連続出場、世界選手権は福岡、上海、バルセロナの3大会に出場。2013年12月に競技からの卒業を宣言。29歳で結婚。現在は二児の母。スイムチームコーチ、スポーツキャスター、水着の監修など多方面で活躍中。インスタグラム : @terakawaaya_official
撮影/髙木亜麗 スタイリスト/中原正登(FOURTEEN)ヘア&メーク/香坂寛子(GATTI) 構成/谷畑まゆみ
リネンブレザー¥31,000、コットントップス¥8,000、パンツ¥17,000、レザーサンダル¥40,000、ピアス¥6,000、ブレスレット¥9,990(バナナ・リパブリック)
私の生き方