「リンカーン」ってどんな人?|生涯をわかりやすく説明
「リンカーン」といえば、有名な名言「人民の人民による人民のための政治」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。しかし、「それ以外に知っていることは?」と聞かれると、途端に口ごもってしまう方も多いかもしれません。
本記事では、リンカーンの生涯とともに名言を紹介していきます。まずは、リンカーンの生涯から触れていきましょう。
学校教育をほとんど受けていなかった、リンカーン
リンカーンは、1809年2月12日に開拓農民だった父トーマスと母ナンシーの第2子として誕生します。ケンタッキー州のホッジェンビル付近の丸太小屋で生まれたのだとか。祖父(トーマスの父)の名にちなみ、エイブラハム(アブラハム)と名づけられました。
その後、リンカーン一家は、開拓の波に乗り、ケンタッキー州からインディアナ州へ、さらにイリノイ州へと移住。それぞれ辺境地での生活だったため、学校教育はほとんど受けることはなかったといわれています。
幼年期を奴隷州で、青少年期以後を北西部の自由州で過ごしたリンカーン。このことは、彼の考え方に大きな影響を及ぼしたと考えられるでしょう。
川舟乗りが政治家に!
リンカーンは、川舟乗り、雑貨商、郵便局長、測量技師などの職を転々としながら、独学で法律を勉強。弁護士資格を取得して、開業します。その後、1834年にイリノイ州の下院議員に選出され、政治に関わります。1846年には合衆国下院議員を一期のみ務めました。
リンカーンは一時政治から遠ざかりますが、「カンザス=ネブラスカ法」に憤り、再び政界へ。1858年の中間選挙では、「奴隷制拡張反対」とする共和党から上院議員として立候補します。
イリノイ州の7都市で行われた一連の立会演説会では、奴隷制問題を主軸にした論戦が展開されました(「リンカーン‐ダグラス論争」として有名)。この時、リンカーンは敗れましたが、彼の政治的資質が知れわたり、2年後の大統領選挙につながっていきます。
南北戦争、そして銃撃…
1860年11月、リンカーンはアメリカの第16代大統領に。翌年、南北戦争が勃発。当初、北軍は不利でしたが、1862年に戦況が好転。1862年に「奴隷解放予備宣言」を出し、翌1863年1月1日に「奴隷解放宣言」を公布しました。このことをきっかけに、南北戦争は奴隷解放の革命戦争へ。
同年11月、リンカーンはゲティスバーグで「人民の人民による人民のための政治」を訴える有名な演説をし、大統領選挙で再選します。
しかしながら、1865年4月14日の夜。ワシントンにあるフォード劇場で観劇中に、南部人俳優のJ・W・ブースに撃たれ、翌朝、56年の生涯を閉じました。南北戦争終結5日後のことだったそうです。
リンカーンの名言「人民の人民による人民のための政治」とは
「人民の人民による人民のための政治」というリンカーンの有名な言葉は、アメリカで最も重要な演説とされている「ゲティスバーグの演説」で発せられたものです。詳しく見ていきましょう。
ゲティスバーグの演説
南北戦争中の1863年11月19日。ゲティスバーグの演説とは、最大の激戦地であったペンシルベニア州ゲティスバーグの国有墓地の戦没者慰霊の式典で行われた演説を指します。
「87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、人はみな平等に創られているという信条にささげられた新しい国家を、この大陸に誕生させた」という言葉から、この演説は始まります。そして、「人民の人民による人民のための政治」という言葉で締めくくられるのです。
全体でわずか2分ほどの演説でした。この演説が行われた当時、それほど一般の心には響かなかったとか。後世になってから、その意義が評価されるようになったそうです。