晴耕雨読とは
「せいこううどく」と読みます。意味は、「よく晴れた日には田畑を耕して汗を流し、雨が降る日には家の中で読書をし教養を深める」こと。ここから、俗世間から離れ、自然にまかせてのんびり暮らすこと、悠々自適の生活を楽しむことを指します。
晴耕雨読の語源
晴耕雨読の語源は不明です。以前は塩谷節山の「晴耕雨読優游するに足る」という漢詩が出典では? という説が有力でした。調査により、1889年に刊行された『少年文庫 第2集』榊信一郎 編 (少年園)に「晴耕雨読」という言葉が確認できていますが、塩谷節山が生まれたのは1878年であるため、その漢詩が出典である可能性はきわめて低くなり、現在では不明となっています。
また、日本では1908年に刊行された伊藤佐千夫の短編小説『紅黄録(こうおうろく)』に次のように記載されていることから、明治以降に登場した言葉と考えられます。
昔からかかっている晴耕雨読の額も怪しく蜘蛛の巣が見える。床の間にはたたんだ六枚折りの屏風が立てかけてあって、ほかに何やかやごてごてと置いてある。
晴耕雨読の解釈
中国由来の故事成語ではなく、日本で生まれた四文字熟語といえる「晴耕雨読」。誰が考えたのかは、はっきりしていないようですが、いろいろな解釈があります。その中の一つを紹介します。
また、中国の『三国志』という書物に登場する天才軍師「諸葛亮(しょかつりょう)」は、荊州(けいしゅう)という場所で、「晴耕雨読」の生活を営んでいました。それは「これから大きなことをやり遂げるためには知識と体力が必要になる。だから、晴れた日には体を動かして健康な状態を維持する。雨の日に無理をして外で活動すると、体調を崩してしまう。それではいざというときに動けなくなるので家の中で本を読んで勉強しよう」という諸葛亮の考え方です。
このことから、いつどんな時でも、ただ待っているのではなく、いつか来るであろう好機に備えて準備を怠らないようにしよう。自然にあらがうことなく、次の飛躍のための準備期間にする、という解釈のしかたもあります。
晴耕雨読の使い方
晴耕雨読という言葉は次のように使われます。
例文
1:定年後は故郷に戻り、晴耕雨読の生活をし、余生を楽しみたいものだ
2:現代社会で、晴耕雨読の生活をするにはそれなりの覚悟が必要だ
3:私は田舎で晴耕雨読の生活をすることに憧れている
毎日あくせくと時間に追われる生活から一転、都会の喧騒から離れて、故郷に戻り、のんびりと、自然にまかせた生活をする。現代風に言えば、スローライフといったところでしょうか。
晴耕雨読の類義語と対義語
晴耕雨読にはどのような類義語や対義語があるのでしょうか。それぞれ例をあげて紹介します。
晴耕雨読の類義語
晴耕雨読の類義語について見ていきます。安定した暮らしの中で、自然に身をまかせ、何ものにも束縛されず、思いのままに生きることを指す語です。
1. 悠々自適(ゆうゆうじてき):世間の煩わしさから離れて思いのままに暮らすこと。
2. 閑雲野鶴(かんうんやかく):自然の中で悠々と暮らすこと。
3. 無為自然(むいしぜん):自然に身をまかせる生き方のこと。
4. 平穏無事(へいおんぶじ):何事もなく穏やかであること。
並んだ字を見ても、ゆったり、のんびりとしたイメージを抱きます。
また、中国の歴史書『十八史略』のなかに「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」という故事があります。天子の堯(ぎょう)が、「50年近く天下を治めているが、世の中が治まっているのか? 本当に自分が天子でいいのか? 」と疑問に思い、わざとみすぼらしい恰好をして、こっそり町へ視察に出かけたところ、一人の老人が言いました。
日出而作、日入而息、鑿井而飲、耕田食、帝力何有我哉。
〈書き下し文〉
「日出でて作し、日入りて息ふ。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや。」と。
〈現代語訳〉
「日が昇れば仕事をし、日が沈んだら休む。井戸を掘っては水を飲み、畑を耕しては食事をする。帝の力なぞどうして私に関わりがあろうか、自由なのだ。」と。
老人は日々の「日出而作、日入而息、鑿井而飲、耕田食」という生活が自由の境地だと言っています。晴耕雨読も、日々の過ごし方が悠々としていて自由の境地である、という意味では共通しているといえるでしょう。