N.Y.で出会った、絵描きの父とダンサーの母の間に生まれた木下ココ。N.Y.に残った父とは年に数回しか会うことができず、ダンス講師として生計を立て、忙しく働く母には甘えることが許されず、孤独な幼少時代を過ごした彼女。大学に進学後、モデル活動をスタートさせ、ひとりで生きていく覚悟を決めて、実家を飛び出したが…。
雑誌『PINKY』時代から、彼女と苦楽をともにしてきた筆者が、知り合って13年目にして、初めて本当の意味で、彼女の人生と本心に触れる———。
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元祖かわいい系モデルがさらけ出す、人生のこれまでとは?Part1
“元祖かわいい系モデル”がこれまでの波瀾万丈な人生を語る。Part2
元祖かわいい系モデルが語る、孤独な日々Part3
母との再会、そして今なお、ダンサーとして踊り続ける理由
そんな彼女が26歳のとき、母のもとで再び、ダンスのレッスンを再開することに。一体彼女に、どんな心境の変化があったのだろうか?
「やっぱり早くに父を亡くしたことが大きかった。なんの心の準備もできないままに、大切な人があっけなく消えてしまって、二度と会えなくなってしまう辛さ。どんなに嫌でも、やっぱり親子って、切っても切れないもの。世界中探しても、母親はひとりしかいない。母のことを考えたときに、本当に自分はこのままでいいの?って何度も自問自答した。家を出て、距離を置いたことで、もう一度、母と向き合ってみようと思えるようになったのかもしれない。自立して大人になった今なら、母とうまくやれるかな…っていう淡い期待もあった」。
数年ぶりに送った母へのメール。また突き放されるかもしれない…という不安はあった。ところが母から返ってきたメールは意外なものだった。これまで彼女に対してとってきた言動を悔い、反省している内容だったのだ。実際、一度距離を置いたことで、母との関係性はすごく良くなった。少しずつ会う機会をつくり、自分のこと、そしてお互いが好きなものを語り合うようになった。彼女が母親の顔色をうかがうことなく、心を開いて話せるようになるまでに、実に26年という歳月を要した。それでも、彼女の心はとても晴れ晴れとしていた。
「そのころ、家を出ている間の母の作品のDVDを借りて観たんだけど、やっぱり好きな路線とか感覚的なものが本当に似ていて、どんなに離れて暮らしていても、やっぱり親子なんだな…と感じた。私も寂しかったけど、母もきっと寂しかったんだろうなって、これまで母と向き合おうとしなかった自分を反省したの」。
当時、結合性貧血で増血剤を飲んでいた彼女。ダンスレッスンの再開は、体力の回復のためでもあった。
「リハビリでジムに通ったこともあるんだけど、辛いだけで楽しくないから続かない。違うジャンルのダンスをやっていた時期もあったけど、私ってやっぱり踊るのが好きなんだな…って気づいた時期でもあるの。最初は体力が落ちてしまっていて、レッスンをフルで受けることもできなかったけど、母の私に対する期待もなくなっていたから、『あなた私の娘なのに下手ね〜』とは言われるけど、昔のように叱られることもなく、『レッスンは受けたいときに勝手に受ければ?』って、いい意味で放置されるようになって、すごく気持ちが楽になった。その後、体力も戻って、フルでレッスンを受けられるようになったら、楽しくてダンスが大好きになった。でも、下手すぎて自分が嫌になるの。でも、下手なものを下手なまま終わらせるようなことはしたくないし、やるからには形にしたいタイプ」。
最短で上達できるようにと、上手い人の踊りを見て研究して、鏡を見ながら一生懸命にレッスンを受けた彼女。モデルを始めたばかりのころ、先輩モデルのポージングを研究して、鏡の前で真似る作業を思い出しながら…。
「ダンスは、突然クルクルスパン!みたいに、劇的に上達するわけではないけど、続けていると、少しずつできることが増えていくの。前より体がやわらなくなったなとか、脚が上がるようになったとか…、そういう小さい発見がうれしくて、いまだに続けている感じ」。
ふだんは週に4回、公演前は週5回のペースでレッスンを受けている。どうして彼女はそこまで踊りにのめり込むのだろう。
「踊ることが、自分にとっていちばんのメンタルトレーニングになっている気がするから。もちろん、楽しいことばかりじゃなくて、レッスンの地味な部分や辛い部分、なかなか上達しない自分への苛立ち…、心が折れそうになることもあるけど、それを乗り越えることで、自分の成長を感じられるの。それと同時に、フィジカル面での発散にもなっていて、仕事やプライベートで嫌なことがあったとしても、踊りに集中している二時間はそこから離れられる。レッスンが終わると、達成感と心地よい疲労感で満たされて、たいていの嫌なことは、リセットされてどうでもいいことになってるの(笑)。自分の中のすごくいいスイッチの切り替え法というか、浄化法というか、自分の中で気持ちのバランスをとるのに、必要なものになってるんだと思う。踊りを再開してから、今、人生でいちばん精神的に安定しているし、穏やかに過ごせている気がしてる」。
昨年の夏の公演では、アートアドバイザーとして舞台の演出にも携わった。
「もともとクリエイティブな仕事に興味があったから、自分のイメージを具現化するアートアドバイザーの仕事はとてもやりがいがあった。母もそういう面では信頼してくれているので、私の意見に賛同してくれて、舞台に生かしてくれるのがうれしかった。母と私は感覚的な部分が似ているから、お互いに共感しやすいところもあるんだろうけど…。ダンサーとして母を尊敬する気持ちは揺るぎない。そのフィールドでは、母と私はやっぱり師弟関係。だから今は私は、ダンサーとして、母の注意を一生懸命に聞くし、他の人への注意へも耳を傾ける。上達するためには、人への注意も自分に活かすようになった。そういう姿勢が母にも伝わったのかなって思う。母との衝突を避けるために、一度はやめたダンスだったけど、こうしてまたダンスを通して、母を尊敬し、母のそばで学べることをとても嬉しく、そして誇りに思う。ほかの人たちから見ると、ちょっと変わっているのかもしれないけど、これが母と私のベストな親子関係。ダンスを通して、こうして母といい関係を築けていることに、今は感謝してる」。
——完——
撮影:柿沼 琉(TRON)