プロ野球選手がフライを落としてしまった。まさに「弘法にも筆の誤り」だ
守備に定評があるプロ野球選手がまさかの落球。そんなシーンを表す一文です。
普段はよく仕事のできる彼がこんな簡単なミスをするなんて「弘法にも筆の誤り」だね
「よく仕事ができる彼」という事実と、「簡単すぎるミス」が相まって「弘法も筆の誤り」と表現した例文です。どちらかが揃わなければ「弘法にも筆の誤り」とはなりません。なお、「弘法にも筆の誤り」は自分に対して使うことはないので注意しましょう。
「弘法にも筆の誤り」類語や⾔い換え表現は?
「弘法にも筆の誤り」と同じような意味で使う表現にはどのようなものがあるのか、見ていきましょう。
猿も木から落ちる
「猿も木から落ちる(さるもきからおちる)」とは、木登りが上手な猿でも、時には誤って木から落ちることもある。という意味です。「弘法にも筆の誤り」と同じ意味ですが、猿に例えてしまっているので、使うときには注意しましょう。目上の人に向かって「猿も木から落ちる」と言ってしまうと、相手が気分を損ねるかもしれません。
河童の川流れ
「河童の川流れ(かっぱのかわながれ)」とは、「普段から水の中に棲み、泳ぎが上手な河童でも川に流されてしまうことがある」という意味です。こちらも「弘法にも筆の誤り」と同じ意味ですが、「猿も木から落ちる」と同様に、妖怪のような恰好をした河童に例えてしまうので、使う時には注意が必要です。
上手の手から水が漏る
「上手の手から水が漏る(じょうずのてからみずがもる)」とは、どんなに得意な人でも、時には失敗するというたとえです。「上手」というのは江戸時代、囲碁将棋の世界で七段の免状をもつものを指しました。「名人」はその上の九段の免状を持つもののこと。
どんなに得意であっても、すべてを完全にすることはできない、時には失敗をするもの、という意味。「弘法も筆の誤り」よりも、親しみやすい人間らしさを感じますね。身近な人に対しては、こちらのことわざの方が使いやすいのではないでしょうか。
孔子の倒れ
「孔子の倒れ(くじのたおれ)」とは、中国、春秋時代の学者・思想家である孔子(くじ/こうし)のような聖人でも、時には失敗することがあるというたとえ。
「弘法にも筆の誤り」と同じく立派な人が失敗することを表現していますので、目上の人に使いやすい表現です。
千慮の一失
「千慮の一失(せんりょのいっしつ)」とは、「史記」淮陰侯伝が由来のことわざで、どんな知者でも、多くの考えのうちには一つぐらいは誤りもあるということを表しています。「千慮」には「いろいろと考えをめぐらす」という意味があり、十分に考えていても、思いがけない失敗があることを伝えたい時に使える言葉です。
また、「浅慮の一失」と書くのは誤りですので注意しましょう。
念者の不念
「念者の不念(ねんしゃのふねん)」とは、念を入れて物事をする人でも不注意なことをする場合があるということを表す言葉です。
立派な弘法大師や、「猿も木から落ちる」「河童の川流れ」のように何かが得意な人ではなく、普段から注意深く物事に取り組む人を表す言葉ですので、相手によって使い分けると良いでしょう。
「弘法にも筆の誤り」の英語表現とは?
次に「弘法にも筆の誤り」の英語表現を紹介します。
Even Homer sometimes nods.
Homerとは古代ギリシアの詩人「ホメロス」のことです。nodsは「うなずく」という意味から、こくりこくりと居眠りをするさまも表します。かの有名な詩人ホメロスでさえ、時々は居眠りをしてしまうことがあるという意味のことわざです。
最後に
「弘法にも筆の誤り」のほかにも、同じ意味のことわざがたくさんあります。それほど人間というものは完全なものではないということなのかもしれません。どんなに努力を重ねて一つに秀でたとしても、人は必ず失敗するもの。だからこそ自分にも、他人にも大らかな気持ちで接することが大切ではないでしょうか。人は失敗をするものという前提で、自分の考え方や、会社の制度なども作るべきなのかもしれません。なぜならほとんどの人は弘法のような人ではないのだから。失敗を繰り返すことで、人は弘法に近づくのでしょう。
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