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2019.05.18

だれにでも起こりうる介護のリアルって?元モデルの介護奮闘記【うちのダディは脳梗塞】

10代をカリスマモデルとして駆け抜け、20代でデザイナーに転身した佐藤えつこさん。順調にキャリアを重ねていた35歳のとき、父親が脳梗塞で倒れ、華やかだった人生が一変しました。アラフォーにして介護歴は4年。その道のりはけして楽なものではありませんでした。だれにでも起こりうる、けして他人事ではない人生の悲喜こもごもと介護のリアルを語ります。 ※7月12日更新

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元モデルのヘビーな日常

10代から20代まで『プチセブン』や『CanCam』等でモデルをし、現在は20代の時に立ち上げたClaskyという小物ブランドのデザイン、その他に、最近ではバスブランドMAROAにも携わっている佐藤えつこさん。
仕事の傍、心原性脳梗塞の後遺症の重度の高次脳機能障害・全失語症・うつ病・過活動性膀胱・右手足の完全マヒを抱える実父の介護をしながら実家で一緒に暮らしています。

そんな彼女が、キラキラしてないリアルな日常を語ってくれました。

▶︎元モデルの介護奮闘記はじまります!

華やかだった人生が一夜にして変わった「はじまりの日」

「お父さんが、倒れたの」

2014年9月、母から電話をもらったその瞬間。私はいつものように会社で仕事をしていました。

「心原性脳梗塞だって。今、○×医大病院に入院してる。でも、病院に近いところにいたから、発症して4時間半以内に投与しないと効かない薬を、すぐに使えたのね。それは間に合ったから、血栓は溶けるだろうって。まあ、ひと安心ね。だから、えっこは仕事してて」

正直、またか~という思いもよぎります。元々、40代ですい臓がんになり、その治療の過程で腎臓まで悪くなったダディ。人工透析をしながら10年生活して、腎臓移植手術を受けてすっかり元気になっていました。

「大丈夫だから、とりあえずごはん行ってきなさい」
そう、その日の夜は、北海道から上京してきた親戚の子供と初めて食事をする約束をしていたんです。
本当はダディの様子をすぐにでも見に行きたかった。でも、従兄妹の子が楽しみにしてくれていたし、約束は守らなきゃいけないし、母からは「変な心配をかけないように、お父さんのことはまだ言わないで!」と頼まれていたので、倒れたとは言えないし……。

妙な使命感と不安がせめぎ合い、飲まずにやってられるか!とガブ飲みしてしまいまして。結果、翌日ひどい二日酔いで意識不明のダディに会いに行くという、我ながらよくわからない事態に(笑)。
あの日、あのままダディが死んでしまっていたら。私は一生消えない後悔をしていただろうなと、今でもときどき思い出します。

▶︎35歳、人生は一夜にして変わることを知った

延命する?しない?「究極の選択」

人の命の期限を決める。想像もしていなかった究極の選択は、突然やってきました。ダディが倒れてから3日後、担当の医師にICU(集中治療室)に呼ばれまして。

「このままいくと、今日一日もちません。延命手術をするか、しないか。今ここで決めてください。リスクを説明しますので」
担当医師に浴びた、呪文のような言葉たち。つまりは、脳が浮腫=ひどいむくみを起こして圧迫され、細胞やら組織やらがどんどん死んでいるということ。このままだと生命維持に重要な脳幹もやられてしまうということ。
そして行く先は、死。

私がモーローとしている間に、母と兄はもう「延命しない」と決めていました。「お父さんは病院ぎらい。自分で食事できない体になってまで延命処置で生きることは望んでいなかった。本人の意思を尊重したい」と。

「イヤイヤ、少しでも助かる可能性があるなら延命するでしょ⁉」
何が何でもダディに生きていてほしかった私は食い下がったけれど、「持ち帰って家族で検討します」なんて猶予は一刻もなく。
家族といえど、何が幸せかの基準は違うんだ。迷っている間にもダディの脳は確実に死んでいく。結局、私が決められることじゃないから……と延命しない選択を受け入れました。

▶︎人の命の期限って決められますか?

「お父さんは、今夜がヤマです」と医師に言われた夜

延命をしないと決めたその夜、いよいよ医師から「今夜が生死の境」だと告げられました。
特別面会を許され、ICUの家族待合室で過ごすことに。病院に残ったのはまさかの私ひとり。母と兄は帰宅しました。

30代にもなって暗い部屋で眠れない私は、静まり返った真っ暗な待合室で一睡もできずに午前3時の退出時間を迎えました。
とてもじゃないけど、家で寝ていられる心境ではなく。私の足は、巣鴨の高岩寺に向かっていました。延命地蔵尊として知られる、とげぬき地蔵です。

朝日が昇るまで、何度も何度も、しつこく祈ったことをおぼえています。お地蔵様に願いが届いたのか否か、ギリギリのところでもちこたえたダディの命。

介護生活を打ち明けると、「実の親とはいえ、よくそこまでできるね」と驚かれることが多々あります。でも、あの夜、私はまぎれもなく自分の意志で願いました。大好きなダディが生きてくれることを。ずっと一緒にいられることを。
だから、だれのせいでもなく、自分の必然としてこの生活を引き受けています。どんなに過酷な状況でも、自分で選択したことだと思えたら、人は前を向いていられるのかもしれません。

▶︎「一生のお願い」は、巣鴨で使い果たしたけれど

追い詰められてとったまさかの行動

夜通しとげぬき地蔵に祈り続けた翌日。脳のむくみがおさまって最悪な状況は逃れたと聞き、兄と一緒にICUに入りました。
ネットで調べると「脳には音楽がいい」とか。手始めに、医師やナースの目を盗んで、ダディが好きなアンディ・ウィリアムスの曲をイヤホンでガンガンに聴かせてみました。
……あー。明らかにイヤな顏をしてるッ!

次に、スーパーで買ってきた豆腐を水きりして患部に当ててみました。なぜなら、記憶にあったとある民間療法で「豆腐を頭に当てれば悪いものがとれる」とあったから。

途端に、ピーッ、ピーッとけたたましく鳴り出す計器の警告音。なんと、ダディの体が何かに反応して異常をきたしている模様。駆けつけたナースに「今すぐ出て行ってください!」と怒られました。

▶︎ICUで、父の頭に豆腐をのせてみた

大好きだった父親の変わり果てた姿

ダディが倒れてから7日後。症状が安定したダディは、個室のICUに移り、時折、目を開けられるようになっていました。無表情で虚空を見つめる目。声をかけても反応はありません。

医師に脳のCT画像を見せてもらいながら、家族全員で今後の説明を受けました。
「腫れは少し引いています。ただし、この先は記憶もない。話もできないし、自分でトイレをすることもできないし、いずれ胃ろう生活になるかもしれない。きっと寝たきりで家には帰れないでしょう。まぁ、もし運よく帰れても、1年以内に生きてる確率は10%、3年以内でも5%。まず5年生存はナイですネ」
希望を失うような言葉の数々が突き刺さり、体が冷えていくのがわかりました。

恥じらうという感情がまるでなくなってしまった姿は、人間じゃないみたいでした。プライド高くかっこよく生きていたダディの魂が空っぽになってしまったようで。

脳梗塞の後遺症。その代表が、〝高次脳機能障害〟でした。
この果てしなくやっかいで、ごくたまに愛おしい障害と、私は35歳にして付き合っていくことになりました。

▶︎〝高次脳機能障害〟がやってきた

新たなピンチ

ダディが倒れてから2週間がたったころ。点滴や機械治療の医療器具が少しずつはずれていき、数分の間であれば目を開けられるようになっていました。
と言っても、まったく言葉を話せない全失語症、右手足のマヒは変わらず。今日明日にどうにかなることはなさそうだ…と、家族の気持ちが少し落ち着いてきたタイミングで、新たなピンチがやってきたのです。

「回復病棟を探してください。脳梗塞を起こしてから2か月以内に見つけて入院しないと、回復病棟サイドが受け入れてくれませんから」。担当医師が面談で切り出したのは、「この病院でやれることはやった、なるべく早く出よ」というお達しでした。

焦りながらも、家族としては次のステップに進めたのだと解釈。
大事なダディの回復を左右する入院先。あとはプロにおまかせ!…という気にはとてもなれず、ネットで鬼のように検索するも、行ってみないことにはわからない実情。さらに予想もしていなかった事態が重なり、病院選びは難航することになります。

▶︎脳梗塞を起こしたら、2か月以内にしなくてはいけないこと

病院探しでお金とコネの重みを実感

回復期にお世話になる病院を探す過程では、「お金さえあったら」「コネさえあれば」とジリジリ悔しい思いをたくさんしました。ここはよさそう! と思う病院が見つかっても、「特別個室だったら受け入れ可能なんですが…」という条件ばかり。

つまり、めちゃくちゃお高いんです。

いろんな人に相談して薦められたある病院は、リハビリから回復させた実績が多く、VIPも入院するようなところ。当然人気も高く、高い個室料金を払ってでもと希望する人が多いのだとか。うちもぜひ入りたいとケースワーカーさんから連絡してもらいました。でもなかなか返事をもらえなくて。やっと返事が来たかと思ったら「受け入れられる個室が空いていないから」と断られました。

なんとか入れないかとあらためて知人経由でアプローチしてみたものの、遠いコネクションでは人を介したやり取りは時間がやたらかかるし、万が一入れてもセレブでないと払えないレベルの金額がかかりそうだし、コネにお金にともう途中でイヤになってしまって・・・。

 

もうひとつ大きなネックになっていたのがダディのもつ「三重苦」です。まず、70代の高齢であること、鼻管(食べることができないため、鼻から管を通し胃に直接栄養を送る)をしていること、腎臓移植の経験者で特殊な薬が必要なこと。その状態ではうちでは受け入れられない、と何件も断られました。

 

▶︎この世は、カネとコネしだい!?

病院選びがついに決着

最終的に4つの病院をまわって決めたのは、医師の友人にもおすすめされ、ケースワーカーさんの候補リストにも入っていた病院でした。

自宅からの近さや通いやすさも大事だけれど、いちばんの決め手は、リハビリを担当するスタッフが若い!ということ。もちろん管理職には50代以上の方もいるものの、現場で一緒にリハビリしてくれるのは20代、30代前半が中心。いろいろな病院を見た中でも、特に若々しい印象でした。

実際にダディが入院してからは、思ったとおり!苦手なはずのリハビリで、スタッフに囲まれてうれしそうにしていたんです。若い子ならではの明るさで警戒心がやわらぐのか、ダディの拒否反応がなくなるのが感じられました。

当初の入院費は1日およそ10万円、高級外資ホテル並み(笑)! 

個室、24時間体制の医療サポート、リハビリ、食事(鼻管注入だけど)が含まれるとはいえ、なかなか衝撃の金額ですよね。

ダディは「三重苦」(エピソード7参照)の事情もあり、最初のころはいちばんランクの高い部屋に入らなきゃいけなくて。そこから一般個室になり、後半は、四人部屋とか大部屋にしてほしいと病院側に頼みました。

▶︎ラグジュアリーホテル並みの入院費でも、決め手になったのは「若さ」

涙を見せなかった父が泣いた理由とは

入院して3か月ほどたったころ、足の装具をつくることに。後遺症で右足がマヒして不能になってしまったので、起立や歩行を補助するためです。

人によってはバランスがとれて歩けるということもあるけれど、装具はあくまで補助。なのに、「コレつくれば歩けるようになるよ」みたいな言い方をしてしまったんです。それがよくなかった。

このころ、少しずつ自分の状況が理解できるようになるにつれて、ダディは突然関係のない動作をしたり、騒いだりするようになっていました。私たちに伝えたいことがあっても、言葉にして口に出したり、文字で書いたり、ジェスチャーで表現することがまったくできない。なんとかして伝えようと、行動と頭の中が混乱してゴチャゴチャになってしまっていたようで。

私や家族、リハビリの担当者、医師、周囲の人たちに対して、トンチンカンな動きをしては、「なんでわかってくれないんだ!!」と必死で伝えようとしていたんですね。でも、体は思うように動かず、言いたいことはまるで理解してもらえない。

もどかしさと不安と悔しさ…その心のモヤモヤが積もりに積もっていたタイミングで、装具ができても、とても歩ける状態ではない自分の現実を突きつけられたダディ。期待が大きかった分、深く落ち込んでしまいました。そして、溜まっていた行き場のない思いがあふれ出したかのように、母にだけ弱みを見せたんです。

人前で絶対泣いたりしなかったダディが、子供のようにわんわん泣いていた。病院の先生によれば、感情をコントロールできなくなってしまうことも、脳の障害の影響のひとつだそうです。

▶︎絶対に涙を見せなかった父が、子供のようにわんわん泣いた

ついに退院準備

入院から5か月。季節は春になっていました。回復期病棟での入院期間は症状によって異なりますが、ダディのような脳梗塞、高次脳機能障害の場合は、150~180日と決められています。

在宅生活に向けて、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語療法士)のみなさんに対応の仕方を教わることに。内容は、車いすやベッドへの移動、オムツのつけ方、筋肉のほぐし方、自宅でのリハビリの訓練などなど。

さらにPTさんが家に来て、介護しやすい環境づくりの提案もしてもらいます。手すりの位置や段差対策、家や生活に合わせた車いす選び、介護ベッド選び、、、。

これまでも月に一度、医師も同席するリハビリ経過報告会で専門家からアドバイスをもらい、家族からの希望を伝える場がありましたが、最後の全体面談では、ケアマネージャー、往診の先生、訪問看護師、訪問リハビリ、介護品を扱う業者さんの紹介をしてもらいました。

〝退院〟という言葉がなんとなくわかってきたダディは、毎日、自分は今日退院できる…と思い込んで喜んで、、、。その都度、家族が「今日じゃないよ、10日後だよ」、「1週間後だよ」「5日後だよ」と伝えては、またそのたびにガックリ、いじけてしまうことも。この時期あたりから、ダディは同じことを繰り返すようになっていきました。

それでも、意思表示もほとんどできなかった入院当初に比べると、少しずつではあるけれど、確かな変化が表れていたんです。

国で決められた期間をフルに入院して、ダディはついに家に帰ってくることができました。

▶︎「もう家には戻れない」と宣告されてから、半年

退院後、思わずパニックになった事態

退院して2日目に、ダディをトイレに連れて行ってベッドに戻そうとしたら、車いすに座ったまま急にビーン!と伸びてブルブルと痙攣し始めたのが最初。

「何が起きたの?!」「えっ?!」とビックリしている間に、ダディが「ゔー、ゔー」と凄い力で歯を食いしばりながら、車椅子から落ちそうになっていて。私と母は焦りながらダディの体を抑えるのに必死で、あたふたしているうちに今度は、ぐったりと意識が飛んでいる様子。

目を見開いて、なんと息まで止まっているんです。

 

かかりつけの先生に先に電話すべきか、救急車を呼ぶべきか、血の気が引く思いですごく迷って、そのときは119番に電話しました。そして、救急車の到着を待つことしばし、、、。

「あれ? なんかダディ、ケロッとしてない?」

家族がみんな混乱しているうちに、救急車が到着。何ごとか、とキョロキョロあたりを見回しているダディ。

隊員の方に経緯を説明すると、おそらく脳の神経細胞のリズムが乱れて起こる〝てんかん(癲癇)〟の症状ではないかとのこと。5分程度であれば命には別条はない。ただし、30分続くと重責状態(※)といって救急治療が必要だったり、後遺症の可能性が高まる危険ゾーンに突入するので、周囲の注意が必要とのアドバイスをもらいました。しばらく様子を見てもらって問題がなさそうだったので、ホッとひと息。その日は救急車をキャンセルすることに。

※てんかん重責状態については、従来、持続時間を30分とするのが一般的でしたが、近年は「痙攣発作が5~10分以上続く、または、発作が反復してその間の意識の回復がない」場合は重責状態と診断されて、治療が必要となることもあります。初めての発作時は、自己判断せず医療機関の受診を。

▶︎目を見開いて、震え出した父にパニック!

イラスト/佐藤えつこ 構成/佐藤久美子

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佐藤えつこ

1978年生まれ。14歳で、小学館『プチセブン』専属モデルに。「えっこ」のニックネームで多くのティーン読者から熱く支持される。20歳で『プチセブン』卒業後、『CanCam』モデルの傍らデザイン学校に通い、27歳でアクセサリー&小物ブランド「Clasky」を立ち上げ。現在もデザイナーとして活躍中。Twitterアカウントは@Kaigo_Diary

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