【目次】
- 元モデルのヘビーな日常
- 華やかだった人生が一夜にして変わった「はじまりの日」
- 延命する?しない?「究極の選択」
- 「お父さんは、今夜がヤマです」と医師に言われた夜
- 追い詰められてとったまさかの行動
- 大好きだった父親の変わり果てた姿
- 新たなピンチ
- 病院探しでお金とコネの重みを実感
- 病院選びがついに決着
- 涙を見せなかった父が泣いた理由とは
- ついに退院準備
- 退院後、思わずパニックになった事態
- 私、実家に帰ります
- ワークスタイルを、ダディファーストに
- 友達には隠していた介護生活
- 回復を願うばかりに、思考停止
- 怒りっぽい、神経質、無気力、おまけに肉食!?
- 無理強いの代償
- 伝わらない思い
- そこにこだわるんだ!?
- 毎日はトイレを中心に回ってる
- ズルをしたら、甘やかすべからず
- 変わらない優しさ、大切なモノ
元モデルのヘビーな日常
10代から20代まで『プチセブン』や『CanCam』等でモデルをし、現在は20代の時に立ち上げたClaskyという小物ブランドのデザイン、その他に、最近ではバスブランドMAROAにも携わっている佐藤えつこさん。
仕事の傍、心原性脳梗塞の後遺症の重度の高次脳機能障害・全失語症・うつ病・過活動性膀胱・右手足の完全マヒを抱える実父の介護をしながら実家で一緒に暮らしています。
そんな彼女が、キラキラしてないリアルな日常を語ってくれました。
華やかだった人生が一夜にして変わった「はじまりの日」
「お父さんが、倒れたの」
2014年9月、母から電話をもらったその瞬間。私はいつものように会社で仕事をしていました。
「心原性脳梗塞だって。今、○×医大病院に入院してる。でも、病院に近いところにいたから、発症して4時間半以内に投与しないと効かない薬を、すぐに使えたのね。それは間に合ったから、血栓は溶けるだろうって。まあ、ひと安心ね。だから、えっこは仕事してて」
正直、またか~という思いもよぎります。元々、40代ですい臓がんになり、その治療の過程で腎臓まで悪くなったダディ。人工透析をしながら10年生活して、腎臓移植手術を受けてすっかり元気になっていました。
「大丈夫だから、とりあえずごはん行ってきなさい」
そう、その日の夜は、北海道から上京してきた親戚の子供と初めて食事をする約束をしていたんです。
本当はダディの様子をすぐにでも見に行きたかった。でも、従兄妹の子が楽しみにしてくれていたし、約束は守らなきゃいけないし、母からは「変な心配をかけないように、お父さんのことはまだ言わないで!」と頼まれていたので、倒れたとは言えないし……。
妙な使命感と不安がせめぎ合い、飲まずにやってられるか!とガブ飲みしてしまいまして。結果、翌日ひどい二日酔いで意識不明のダディに会いに行くという、我ながらよくわからない事態に(笑)。
あの日、あのままダディが死んでしまっていたら。私は一生消えない後悔をしていただろうなと、今でもときどき思い出します。
延命する?しない?「究極の選択」
人の命の期限を決める。想像もしていなかった究極の選択は、突然やってきました。ダディが倒れてから3日後、担当の医師にICU(集中治療室)に呼ばれまして。
「このままいくと、今日一日もちません。延命手術をするか、しないか。今ここで決めてください。リスクを説明しますので」
担当医師に浴びた、呪文のような言葉たち。つまりは、脳が浮腫=ひどいむくみを起こして圧迫され、細胞やら組織やらがどんどん死んでいるということ。このままだと生命維持に重要な脳幹もやられてしまうということ。
そして行く先は、死。
私がモーローとしている間に、母と兄はもう「延命しない」と決めていました。「お父さんは病院ぎらい。自分で食事できない体になってまで延命処置で生きることは望んでいなかった。本人の意思を尊重したい」と。
「イヤイヤ、少しでも助かる可能性があるなら延命するでしょ⁉」
何が何でもダディに生きていてほしかった私は食い下がったけれど、「持ち帰って家族で検討します」なんて猶予は一刻もなく。
家族といえど、何が幸せかの基準は違うんだ。迷っている間にもダディの脳は確実に死んでいく。結局、私が決められることじゃないから……と延命しない選択を受け入れました。
第2回▶︎人の命の期限って決められますか?
「お父さんは、今夜がヤマです」と医師に言われた夜
延命をしないと決めたその夜、いよいよ医師から「今夜が生死の境」だと告げられました。
特別面会を許され、ICUの家族待合室で過ごすことに。病院に残ったのはまさかの私ひとり。母と兄は帰宅しました。
30代にもなって暗い部屋で眠れない私は、静まり返った真っ暗な待合室で一睡もできずに午前3時の退出時間を迎えました。
とてもじゃないけど、家で寝ていられる心境ではなく。私の足は、巣鴨の高岩寺に向かっていました。延命地蔵尊として知られる、とげぬき地蔵です。
朝日が昇るまで、何度も何度も、しつこく祈ったことをおぼえています。お地蔵様に願いが届いたのか否か、ギリギリのところでもちこたえたダディの命。
介護生活を打ち明けると、「実の親とはいえ、よくそこまでできるね」と驚かれることが多々あります。でも、あの夜、私はまぎれもなく自分の意志で願いました。大好きなダディが生きてくれることを。ずっと一緒にいられることを。
だから、だれのせいでもなく、自分の必然としてこの生活を引き受けています。どんなに過酷な状況でも、自分で選択したことだと思えたら、人は前を向いていられるのかもしれません。
追い詰められてとったまさかの行動
夜通しとげぬき地蔵に祈り続けた翌日。脳のむくみがおさまって最悪な状況は逃れたと聞き、兄と一緒にICUに入りました。
ネットで調べると「脳には音楽がいい」とか。手始めに、医師やナースの目を盗んで、ダディが好きなアンディ・ウィリアムスの曲をイヤホンでガンガンに聴かせてみました。
……あー。明らかにイヤな顏をしてるッ!
次に、スーパーで買ってきた豆腐を水きりして患部に当ててみました。なぜなら、記憶にあったとある民間療法で「豆腐を頭に当てれば悪いものがとれる」とあったから。
途端に、ピーッ、ピーッとけたたましく鳴り出す計器の警告音。なんと、ダディの体が何かに反応して異常をきたしている模様。駆けつけたナースに「今すぐ出て行ってください!」と怒られました。
第4回▶︎ICUで、父の頭に豆腐をのせてみた
大好きだった父親の変わり果てた姿
ダディが倒れてから7日後。症状が安定したダディは、個室のICUに移り、時折、目を開けられるようになっていました。無表情で虚空を見つめる目。声をかけても反応はありません。
医師に脳のCT画像を見せてもらいながら、家族全員で今後の説明を受けました。
「腫れは少し引いています。ただし、この先は記憶もない。話もできないし、自分でトイレをすることもできないし、いずれ胃ろう生活になるかもしれない。きっと寝たきりで家には帰れないでしょう。まぁ、もし運よく帰れても、1年以内に生きてる確率は10%、3年以内でも5%。まず5年生存はナイですネ」
希望を失うような言葉の数々が突き刺さり、体が冷えていくのがわかりました。
恥じらうという感情がまるでなくなってしまった姿は、人間じゃないみたいでした。プライド高くかっこよく生きていたダディの魂が空っぽになってしまったようで。
脳梗塞の後遺症。その代表が、〝高次脳機能障害〟でした。
この果てしなくやっかいで、ごくたまに愛おしい障害と、私は35歳にして付き合っていくことになりました。
第5回▶︎〝高次脳機能障害〟がやってきた
新たなピンチ
ダディが倒れてから2週間がたったころ。点滴や機械治療の医療器具が少しずつはずれていき、数分の間であれば目を開けられるようになっていました。
と言っても、まったく言葉を話せない全失語症、右手足のマヒは変わらず。今日明日にどうにかなることはなさそうだ…と、家族の気持ちが少し落ち着いてきたタイミングで、新たなピンチがやってきたのです。
「回復病棟を探してください。脳梗塞を起こしてから2か月以内に見つけて入院しないと、回復病棟サイドが受け入れてくれませんから」。担当医師が面談で切り出したのは、「この病院でやれることはやった、なるべく早く出よ」というお達しでした。
焦りながらも、家族としては次のステップに進めたのだと解釈。
大事なダディの回復を左右する入院先。あとはプロにおまかせ!…という気にはとてもなれず、ネットで鬼のように検索するも、行ってみないことにはわからない実情。さらに予想もしていなかった事態が重なり、病院選びは難航することになります。
第6回▶︎脳梗塞を起こしたら、2か月以内にしなくてはいけないこと
病院探しでお金とコネの重みを実感
回復期にお世話になる病院を探す過程では、「お金さえあったら」「コネさえあれば」とジリジリ悔しい思いをたくさんしました。ここはよさそう! と思う病院が見つかっても、「特別個室だったら受け入れ可能なんですが…」という条件ばかり。
つまり、めちゃくちゃお高いんです。
いろんな人に相談して薦められたある病院は、リハビリから回復させた実績が多く、VIPも入院するようなところ。当然人気も高く、高い個室料金を払ってでもと希望する人が多いのだとか。うちもぜひ入りたいとケースワーカーさんから連絡してもらいました。でもなかなか返事をもらえなくて。やっと返事が来たかと思ったら「受け入れられる個室が空いていないから」と断られました。
なんとか入れないかとあらためて知人経由でアプローチしてみたものの、遠いコネクションでは人を介したやり取りは時間がやたらかかるし、万が一入れてもセレブでないと払えないレベルの金額がかかりそうだし、コネにお金にともう途中でイヤになってしまって・・・。
もうひとつ大きなネックになっていたのがダディのもつ「三重苦」です。まず、70代の高齢であること、鼻管(食べることができないため、鼻から管を通し胃に直接栄養を送る)をしていること、腎臓移植の経験者で特殊な薬が必要なこと。その状態ではうちでは受け入れられない、と何件も断られました。
第7回▶︎この世は、カネとコネしだい!?
病院選びがついに決着
最終的に4つの病院をまわって決めたのは、医師の友人にもおすすめされ、ケースワーカーさんの候補リストにも入っていた病院でした。
自宅からの近さや通いやすさも大事だけれど、いちばんの決め手は、リハビリを担当するスタッフが若い!ということ。もちろん管理職には50代以上の方もいるものの、現場で一緒にリハビリしてくれるのは20代、30代前半が中心。いろいろな病院を見た中でも、特に若々しい印象でした。
実際にダディが入院してからは、思ったとおり!苦手なはずのリハビリで、スタッフに囲まれてうれしそうにしていたんです。若い子ならではの明るさで警戒心がやわらぐのか、ダディの拒否反応がなくなるのが感じられました。
当初の入院費は1日およそ10万円、高級外資ホテル並み(笑)!
個室、24時間体制の医療サポート、リハビリ、食事(鼻管注入だけど)が含まれるとはいえ、なかなか衝撃の金額ですよね。
ダディは「三重苦」(エピソード7参照)の事情もあり、最初のころはいちばんランクの高い部屋に入らなきゃいけなくて。そこから一般個室になり、後半は、四人部屋とか大部屋にしてほしいと病院側に頼みました。
第8回▶︎ラグジュアリーホテル並みの入院費でも、決め手になったのは「若さ」
涙を見せなかった父が泣いた理由とは
入院して3か月ほどたったころ、足の装具をつくることに。後遺症で右足がマヒして不能になってしまったので、起立や歩行を補助するためです。
人によってはバランスがとれて歩けるということもあるけれど、装具はあくまで補助。なのに、「コレつくれば歩けるようになるよ」みたいな言い方をしてしまったんです。それがよくなかった。
このころ、少しずつ自分の状況が理解できるようになるにつれて、ダディは突然関係のない動作をしたり、騒いだりするようになっていました。私たちに伝えたいことがあっても、言葉にして口に出したり、文字で書いたり、ジェスチャーで表現することがまったくできない。なんとかして伝えようと、行動と頭の中が混乱してゴチャゴチャになってしまっていたようで。
私や家族、リハビリの担当者、医師、周囲の人たちに対して、トンチンカンな動きをしては、「なんでわかってくれないんだ!!」と必死で伝えようとしていたんですね。でも、体は思うように動かず、言いたいことはまるで理解してもらえない。
もどかしさと不安と悔しさ…その心のモヤモヤが積もりに積もっていたタイミングで、装具ができても、とても歩ける状態ではない自分の現実を突きつけられたダディ。期待が大きかった分、深く落ち込んでしまいました。そして、溜まっていた行き場のない思いがあふれ出したかのように、母にだけ弱みを見せたんです。
人前で絶対泣いたりしなかったダディが、子供のようにわんわん泣いていた。病院の先生によれば、感情をコントロールできなくなってしまうことも、脳の障害の影響のひとつだそうです。
第9回▶︎絶対に涙を見せなかった父が、子供のようにわんわん泣いた
ついに退院準備
入院から5か月。季節は春になっていました。回復期病棟での入院期間は症状によって異なりますが、ダディのような脳梗塞、高次脳機能障害の場合は、150~180日と決められています。
在宅生活に向けて、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語療法士)のみなさんに対応の仕方を教わることに。内容は、車いすやベッドへの移動、オムツのつけ方、筋肉のほぐし方、自宅でのリハビリの訓練などなど。
さらにPTさんが家に来て、介護しやすい環境づくりの提案もしてもらいます。手すりの位置や段差対策、家や生活に合わせた車いす選び、介護ベッド選び、、、。
これまでも月に一度、医師も同席するリハビリ経過報告会で専門家からアドバイスをもらい、家族からの希望を伝える場がありましたが、最後の全体面談では、ケアマネージャー、往診の先生、訪問看護師、訪問リハビリ、介護品を扱う業者さんの紹介をしてもらいました。
〝退院〟という言葉がなんとなくわかってきたダディは、毎日、自分は今日退院できる…と思い込んで喜んで、、、。その都度、家族が「今日じゃないよ、10日後だよ」、「1週間後だよ」「5日後だよ」と伝えては、またそのたびにガックリ、いじけてしまうことも。この時期あたりから、ダディは同じことを繰り返すようになっていきました。
それでも、意思表示もほとんどできなかった入院当初に比べると、少しずつではあるけれど、確かな変化が表れていたんです。
国で決められた期間をフルに入院して、ダディはついに家に帰ってくることができました。
第10回▶︎「もう家には戻れない」と宣告されてから、半年
退院後、思わずパニックになった事態
退院して2日目に、ダディをトイレに連れて行ってベッドに戻そうとしたら、車いすに座ったまま急にビーン!と伸びてブルブルと痙攣し始めたのが最初。
「何が起きたの?!」「えっ?!」とビックリしている間に、ダディが「ゔー、ゔー」と凄い力で歯を食いしばりながら、車椅子から落ちそうになっていて。私と母は焦りながらダディの体を抑えるのに必死で、あたふたしているうちに今度は、ぐったりと意識が飛んでいる様子。
目を見開いて、なんと息まで止まっているんです。
かかりつけの先生に先に電話すべきか、救急車を呼ぶべきか、血の気が引く思いですごく迷って、そのときは119番に電話しました。そして、救急車の到着を待つことしばし、、、。
「あれ? なんかダディ、ケロッとしてない?」
家族がみんな混乱しているうちに、救急車が到着。何ごとか、とキョロキョロあたりを見回しているダディ。
隊員の方に経緯を説明すると、おそらく脳の神経細胞のリズムが乱れて起こる〝てんかん(癲癇)〟の症状ではないかとのこと。5分程度であれば命には別条はない。ただし、30分続くと重責状態(※)といって救急治療が必要だったり、後遺症の可能性が高まる危険ゾーンに突入するので、周囲の注意が必要とのアドバイスをもらいました。しばらく様子を見てもらって問題がなさそうだったので、ホッとひと息。その日は救急車をキャンセルすることに。
※てんかん重責状態については、従来、持続時間を30分とするのが一般的でしたが、近年は「痙攣発作が5~10分以上続く、または、発作が反復してその間の意識の回復がない」場合は重責状態と診断されて、治療が必要となることもあります。初めての発作時は、自己判断せず医療機関の受診を。
第11回▶︎目を見開いて、震え出した父にパニック!
私、実家に帰ります
退院後は、いよいよ在宅での介護が始まります。
10代からモデルとして働き、15年以上実家を出て都内で暮らしていた私。実家に戻ると決めたものの、35歳まで自由気ままに暮らしてきたわけで、本音を言えば、「あ~、また実家か〜」という思いもありましたね。
一方、母は本当に私が戻ってくるとは思っていなかったようで、「お父さんが帰宅しても、ひとりで面倒見きれるかなぁ…」とすっかり弱気。しかも、別々に暮らす会社員の兄は、毎日朝から夜遅くまで働いていたので、実家には月に数回帰ってこれるかどうか。
ここは愛するダディのため、自分が仕切らねば!!…との思いで、私がメインでダディの介護を、母が料理や掃除、洗濯といった家事を担当するという分担にしました。
さてさて。気合いを入れて始まった介護生活。実際どんなもんかと思っていましたが…。
ひと言で表すならば、、、超絶ハード!!!
とにかく何もかもが初めてなので、毎回とまどってしまうんですね。おむつの替え方ひとつとっても、回復病棟で教えてもらってはいるけれど、講習では簡単に見えてもいざ実践となると苦戦してしまって。
ごはんを食べさせるのもひと苦労。愛犬クリイのエサを食べようとしたり、醤油もカビ〇ラーも飲もうとしてしまう。もはや予測不能。意味がわからない動きが多すぎて、キケンで目が離せません。
夜は夜で寝たかと思えば、10分、15分おきに何度も起きて呼ばれる。夜中もそれが続くのでほとんど眠れず、最初の10日間くらいは、ずーっと頭痛がしていましたね。
第12回▶︎自由気ままな生活が、三十路半ばにして激変!
ワークスタイルを、ダディファーストに
ダディの自宅介護を始め、私の仕事の仕方も大きく変化しました。
表参道近くのオフィスに毎日通っていたところを、すべて自宅作業に切り替え。自社ブランドの展示会をお休みし、メールと電話で対応できる案件に絞ることで、極力家にいられるようにしました。
私が代表を務める会社は社員が数名と中国に契約パートナーがいるくらいの小さな会社で、自社ブランドの『Clasky』のほかにアパレルブランドのOEMも請け負っていて、大口のお仕事で経営が安定していたことも実現できた要因だったと思います。
ただ、仕事量が減った分、社員はどうしても手持ち無沙汰になってしまいます。事情を話してみんなわかってくれてはいましたが、当初はやっぱり自分に余裕がなくて丁寧にコミュニケーションをとることができず、、、。
それでも会社に残ってくれていたけれど、ひとりは職種柄あまりにやることがなくなってしまい退職しました。申し訳ない思いでいっぱい、、、。
ちなみにお取引先には事情は特に伝えていなかったのですが、もともとこぢんまりと不定期で展示会をやっていたこともあり、体勢に影響がなかったのは幸いでした。
すべてをダディファーストにシフトしていくことができたのは、自営業の特権かもしれません。以前、会社があるブランドの傘下に入っていたころは、従業員として会社員的な働き方をしていたこともあります。もしそのままのワークスタイルだったら、介護はとてもできなかっただろうなと。
第13回▶︎働きながら介護をするためにやったこと、やめたこと
友達には隠していた介護生活
「フケたね~!」
自宅での介護生活を始めてから、数か月たったある日。久しぶりに会った友達の第一声。
なかなかのショックでしたが、「最近どうしてる?」と聞かれても「相変わらずだよ~」と曖昧に答えて、介護のことは一切語らずにいたので、忖度なしの正直な印象だったんだろうなと思います。
ダディが倒れてから最初の1年は、インスタもブログも他の人の投稿をまったく見ていませんでした。見られなかった、というのが正しいかもしれません。
同世代の友達はみんな、仕事に趣味に、遊びにおしゃれに子育てに…とそれぞれ忙しそうで、キラキラして見えました。一方の私は、介護を始める前は毎週のように飲みに出かけていたのに、出られる時間が無いのもあったけど、まったく遊ぶ気持ちにもなれず、、、。
自分の周りにいた人たちは華やかだったんだな。仲良くしていたけど、もう違う世界の人なんだな、と思うように。
じわじわふさぎ込んでいく私にとって、救いはネットゲームでした。
第14回▶︎リア充SNSが見られなくて、ネトゲとパチンコに現実逃避
回復を願うばかりに、思考停止
「脳梗塞に効くらしい」
そんな魅惑の言葉に誘われて、出向いた場所は数知れず。とにかくいろんな治療法を調べて、ありとあらゆるところに電話し、病院やリハビリ施設などに面談に行きました。遠く離れた地方へ足を延ばしたこともあります。
でも、70代で全失語症、右手足完全マヒのダディを見るや、その反応の悪さに心折れる日々。
断られ続けて、ついには気功にも挑戦。基本、どこに行っても断られるので、私も家族もやれるものはなんでもやってみたいという境地になっていました…。
第15回▶︎ワラにもすがる思いで、エセ気功師にぼったくられる
怒りっぽい、神経質、無気力、おまけに肉食!?
高次脳機能障害は一見しただけではわからず、「見えない障害」とも言われるそうです。我が家のダディも、パッと見は車いすを使っているくらいで、いたって「普通」。でも、性格はすっかり別人になっていました。
以前はポジティブでアクティブな人だったけれど、とにかく急に機嫌が悪くなって怒るし、かと思えば、朝から無気力で落ち込んで鬱々としている日も。在宅介護をスタートすると、日常生活でもその変わりぶりが随所に見られるようになりました。
まず、異常なほどの寒がりに。冬はどんどん着こんでマフラーもぐるぐる巻いています。夏は夏で、長袖を着ておまけに「ブランケットを肩とひざ元にかけろ」「クーラーを消せ」とずっと訴えてくる。汗をだらだらかきながら、それでも「寒い、寒い」と…。
第16回▶︎まるで別人? 家族も衝撃のビフォーアフター
無理強いの代償
介護ビギナーなので、失敗は山ほど。その都度アタフタしながら、「こうすればよかったのか」「次はこれを試してみよう!」と、小さな改善をくり返して乗り切ってきました。ただ、唯一取り返しがつかなくて後悔していることがあります。
それは、ダディにムリヤリ絵を描かせようとして、その日以来、一切描かなくなってしまったこと。
脳梗塞になる前、ダディは画家を生業としていました。私はいつかまた好きなように絵を描けるようになってくれたら…と思っていましたし、病院の先生にも「描くといいリハビリになる」と言われていたのですが、、、。
第17回▶︎画家だったダディが、絵を描かなくなった日
伝わらない思い
高次脳機能障害がもどかしいのは、とにかく意志疎通がうまくできないところ。さらにダディは全失語症なので、どんな状態で何を求めているのかさっぱりわからず、毎日が謎解きなんです。
たとえばリハビリ中にやる気がないダディに対し、いつものようにサボっているのかと思って強引に促したところ、実は風邪で熱があった…とか。寝ているときに「暑い」ということも言えないから、汗びっしょりになっていた…とか。
かと思えば、急に宙を指さしてワーワー何かを訴え始めたり、大声で異様に笑い始めたりするので、いよいよ大丈夫かな?と心配に(汗)。ダディには私たちには見えない何かが見えているのか、、、理由は不明のままです。
ダディの日常の要求は、キッチンの電気を消せとか、机の上で倒れている目薬を起こせとか、急を要さない些細なこと。でも、ダディは自分が伝えたいことをこちらが当てるまで、何度も何度も要望してくるんです。これがまた、仕事で忙しいときにかぎってわざとやってくる。。。
第18回▶︎正解がわかるまでエンドレスに続く父の要求に、怒っては後悔
そこにこだわるんだ!?
すっかり別人になったダディですが、日々の生活の中では謎のこだわりポイントがいろいろとあります。
まず、隙あらば、鏡ばかり見てる(笑)。いつも机の上に置いてあって、一日何度もいろんな角度から自分の顔をチェックしています。入院中は髪をよくなでたり、ブラシを催促していたので、ヘアスタイルを気にしているのかと思っていたら、家に帰ってきてからは屋内でも帽子をかぶったまま。それでも鏡チェックは怠りません。
そんなナルシストっぽさを出しながら、「恥ずかしい」は一切ないんです。「トイレに連れて行け」は、家族でなくても、若い女性の介護スタッフでもだれにでも頼むという不思議。トイレに行ったら行ったで、堂々と仁王立ちしています。うーん、頭は隠すのに下半身はいいのか!?
そして、とにかくめちゃくちゃ神経質です。細かいことがあちこち気になるようで、本人は言葉にはできないのですが汲み取ってみると…。
第19回▶︎歩けなくても話せなくても、譲れないものはあるらしい
毎日はトイレを中心に回ってる
介護、といえば「下のお世話はどうしてるの?」と気になっている方も多いかもしれませんね。正直、「ダディのトイレのために生きている」と言ってもいいほどの時期がありました。
もう、とにかく暇さえあればトイレに行きたがる!入院中は、ナースコールを鳴らしまくるので看護師さんに申し訳なくて。
退院して家に帰ってきてからも、行っても何も出ないクセにしょっちゅう催促するんです。やることがないからトイレに行くのが楽しみというか、もはや娯楽になっているという。。。あまりにうずうずしているので、しょうがなく「じゃあ、トイレ行く?」と声かけると「うんうんうん!」って大喜び。そういうときは案の定、何も出ません。
ただし、本気で行きたいときは震え出します。焦って連れて行ったものの間に合わなくて、オムツを下ろした瞬間、手にウ〇コをかけられたことも、一度や二度ではありません(泣)。
実際、頻尿であることは確か。当初は夜も15分、30分おきにトイレのために起こされて、頭がおかしくなるかと思いましたが、今は調子がよいときは、3時間おきまでに間隔が広がってきました。
第20回▶︎寝ても覚めても、トイレが大好き♡
ズルをしたら、甘やかすべからず
倒れる前は常にテキパキしていたダディですが、脳梗塞後はいろいろなことが面倒になっている印象があります。
特にキライなのが、リハビリ。なんとか回避しようと、時にはズルい一面を見せることも。入院中からその兆しはあって、平日毎日行われるリハビリの時間になるとちゃっかり寝たフリをしていました。
在宅介護になってからも、言語療法士(ST)さんが、いろいろと工夫してリハビリしようとしてくれているのにまるで話を聞いていなかったり。家から脱走を試みたものの、車いすで玄関のドアを開けることもできずにしょんぼりしていたこともありました。プライドが高いので、「あいうえお」や「おやすみなさい」など、幼稚園児のような練習をさせられて、できない自分に直面するのがイヤなのかも、、、。
第21回▶︎寝たフリ、仮病、脱走…リハビリをサボるため、あの手この手で悪知恵を絞る
変わらない優しさ、大切なモノ
介護が始まって以来、ここまではダディの〝かまってちゃん&困ったちゃん〟なエピソードが満載でしたが、変わらない優しさもあります。
まずは、愛犬のクリイが大好き。元は私が飼っていたパグで、ダディが元気だったころからたびたび実家に連れて帰ったり、旅行中に預かってもらっていました。ダディはクリイをすごくかわいがっていて、以前散歩中にリードがはずれて逃げてしまいそうになったときに、必死で追いかけて顔から転んで歯を折った(!)くらい。
脳梗塞で倒れて間もないころは、記憶がおぼろげになっていたのかクリイを見て怖がってしまう時期もあったんです。でも在宅介護が始まってから唯一、以前の優しさと変わらなかった相手がクリイ。
寝る場所を譲ってあげたり、ブランケットをかけてあげたりと、常にクリイファーストでした。2年前、11歳半でクリイが死んでしまったときは、動かなくなった小さな体の隣で泣いていたダディ。今でも、パグが出てくるホテルズドットコムのCMがテレビで流れると、毎回反応します。
イラスト/佐藤えつこ 構成/佐藤久美子
佐藤えつこ
1978年生まれ。14歳で、小学館『プチセブン』専属モデルに。「えっこ」のニックネームで多くのティーン読者から熱く支持される。20歳で『プチセブン』卒業後、『CanCam』モデルの傍らデザイン学校に通い、27歳でアクセサリー&小物ブランド「Clasky」を立ち上げ。現在もデザイナーとして活躍中。Twitterアカウントは@Kaigo_Diary